2017年1月22日日曜日

カープ学講座を公開

suitonchannelで配信している野球文化大学広島校の「カープ学講座」。

元広島東洋カープ投手の高橋里志さんを講師にお迎えしての第3回目の講座の模様がYouTubeにアップされました。

ここにまとめて公開いたします。

第1回


第2回


3回


4回


5回


6回


2017年1月20日金曜日

ご返礼のペナルティーキック!

FaceBookにはいろいろな機能があって、そのなかに「この日の思い出を見る」というのがありますよね

だれも頼みもしないのに、ありがたくも何年か前の投稿のトピックが表示されるというもので、はじめはお節介な機能だとバカにしていたのですが、何度も表示されるうちに「まんざら悪くないな」と思うようになりました。

きょうもきょうとて、朝一番でFaceBookを開くと、4年前の今日のある投稿が掲示されました。
表示されたのは自分が描いた拙いイラスト。

「おっ、懐かしい」とは思ったものの、中の記事については何を書いたのかを失念していました。

それで「もっと見る」をクリックして記事を確認してみました。

それが下記の記事です。




「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ発言しないのか?
ここ数年、旧広島市民球場問題を注視してきたが、不可解なのはカープ球団からの発言がないことだ。市民球場の大家が広島市だったとすれば、カープ球団はいわば店子。だったら発言する権利はあるはずだ。たとえば「市民球場は市民のかけがえのない財産。できれば改修してスポーツ施設としてサンフレッチェに受け継いでほしい」
こう公式に発言していれば、市民球場問題はこれほど迷走することはなかっただろう。
それができなかった理由でもあるのだろうか。
たしかにあの場所にサンフレッチェが本拠地を構えれば、ファンのいくらかはサンフレになびくだろう。
いままで遠すぎて足が向かなかったのが、あそこなら気軽に観戦できる。そういう自分も、いまだサンフレを観戦したことはないが、たぶん行くだろう。
たしかに22年も優勝をしないような緊張感のない球団と、とうとう初優勝をかちとった旬のサンフレでは、カープは分が悪い。
しかしそこは同じ広島でスポーツ文化を継承している仲間ではないか、サンフレのためにひと肌ぬぐくらいの度量があってしかるべきだろう。
そして堂々と企業努力で勝負すればいい。それが相乗効果となってファンを吸引するパワーはさらに増すことだろう。
もしパイを分け合うのがいやで、「跡地にサッカースタジアムを」という民意に水を差しているようなら、それは言語道断のことだ。
聞くところによると球団のトップは跡地にサッカー場をという案を否定しているらしい。それならそれで意見を表明されたらどうだろうか。なんといっても、営業権を持っていた元店子なのだから。
                                  以上

                    ❇
4年前と「サッカースタジアムが市民球場跡地にできない構造」は同じでも、状況はかなりちがってきているのはご存知のとおり。
カープの経済的な基盤は、もう当時とは格段の違いになっているはず。
新球場景気と地道な企業努力とが実って、いまは堂々たる金満球団になっているのですから。

にもかかわらず、ここ最近になってもサッカースタジアム問題に関する見解が公にされないどころか、球団トップは昨年ある週刊誌の取材に「わしは宇品がいいと思っとる」と、とてもスタジアムなんか建設できそうもない候補地を推薦するようなピンぼけの発言さえする始末。

それどころか、当時よりも輪郭がはっきりとしてきたキナ臭い情報や、苦笑するような行政やそのトップたちの施策や言動がネットでも散見されるようになっていて、たとえばそのひとつがこのニュースです。


広島市民球場跡地とサッカースタジアム問題の推移を少しでもご存知の方はすぐにピンと来たことでしょう。

「ああ、また始めたよ(苦笑」と。

何としても市民球場跡地にサッカースタジアムはつくらせない。
この怨念にも似た執念に凝り固まっての子供じみた茶番劇の、新しい場面がまたぞろ幕開けしたことを。

「ふー、やれやれ」

それが実感じゃないでしょうか。

                    ❈


実はこのニュースはすでに一部では報道されていたものでした。

下がその記事。
中国新聞に1月3日に掲載されていたものです。




あらためて気になって読み返してみると、なんとこの情報をいつどのように入手したのかが書いてないのですね。(ズブズブの広島市との関係をいまさら、ということなのかもしれませんが)新聞記事の基本中の基本が記事中に欠けていたのです。

それで新聞社に問い合わせてみました。
窓口は最初、担当記者に確認するといいながら、すぐにかけ直してきたのは上司らしき人物。まあよくあることですね、何か不都合がある時は。
記者がうかつなことしゃべっては困りますもんね。

それはさておき「いつどこで誰から」ということに関しては案の定、明言はされませんでした。

記事の末尾に広島市の都市計画課のコメントがあるから、「…そこからの情報ということで…」でした。

いつ?、については「記事が3日ですから、その前ということですよね」とこちらから確認すると、「まあそういうことで」と電話の向こうで苦笑い。

短い応対でしたが、残念ながら「食わせ物の記事」であるという印象を強く持ちました。

ちなみに3日より前ということは、年末の忙しい時期とお休みの正月を挟んでのことですから、記者というか新聞社は去年の師走の早い時期、すくなくても中旬頃までには情報を入手していたことになります。

たとえば「何日、関係者によると」が12月の15日で、記事が翌年の3日では、いかにもな記事になってしまいますもんね。明かせないのは当然です。

それではなぜ年を越えて年頭の最初の日に掲載したのか?
あるいは、なぜ18日の市長の定例会見に合わせることなく、ずっと前の3日に掲載したのか?

そのへんを考察すると、何となくこの記事の意図が見えてくるのではないでしょうか。
きっと、この「3日」が意味を持っていたのでしょう。

私の見解ですか?

多分、正月版のあとすぐの年頭の記事に託して新聞社の編集方針をぶち上げたということなんじゃないでしょうか。

今年も広島市と黄金バッテリーを組んで、絶対に市民球場跡地にサッカースタジアムはつくらせませんよ!」という念頭の“選手宣誓”。
それを寛容な市民はじめ関係各位に伝えたのではないでしょうか。

勘ぐりすぎですかね。(笑

                    ✽

でも、これまでも理解を得られなかったこの条例が可決されることはないのでは?
とお思いのあなた、ご心配はいりません。

たとえそれが実現しなくても、この話題を審議の過程とともに垂れ流すことで「ああ、あそこは高さ制限があるらしいから」と、市民はうかつにも刷り込まれてしまうんですね。

いつもの「既成事実づくり」というやつです。

広島市民球場を解体にもっていくさいも、さんざん使われたテですよね。

「ああ、もう解体は決まったんでしょ」あれです。

もう敵投手のクセはすっかりお見通しです。(笑

またまた性懲りもなく市民球場跡地を選択肢からはずそうというもくろみ。
こんな子供だましをいつまでつづける気なんでしょうか、あの方たちは。(笑

さすがにこの景観条例には呆れるを通り越して、ふつふつと暗い笑いのようなものがこみ上げてきました。
そして、私もピッチの隅でいっしょに遊ばせてもらいたくなってまいりました。

そこで、これまでずっと温めていた出版企画

「広島にはなぜサッカースタジアムができないのか?」

これをいよいよ形にしたく。(諸々の出版事情、小生の力量不足もあり、実現は保証の限りではありませんが)

ぼちぼち資料や記事をまとめ、取材を進めて、できれば年内に刊行できればと思います。

良識ある市民である皆様にもごいっしょに遊んでいただきたく、まずは情報などお持ちでしたら、下記の私のメールかツイッター、FaceBookのダイレクトメールにお送りいただきたく、お願いいたします。

  Maile:inoriwo@yahoo.co.jp まで。




と、ここまで書いたところで、こんな本がAmazonから届きました。
グッドタイミング。




「お役所の掟」です。

著者は厚生省のお役人だったようで、つまり松井広島市長の先輩に当たられるようで、これは面白い参考資料になるかもしれません。




2017年1月5日木曜日

お別れの年賀状

敬愛していたYさんが亡くなられた。

3日に年賀状が届いたばかり。
その方が今はもうこの世にあらず、鬼籍に入られてしまったことが未だに信じられない。


年末に手作りの塩をお届けに寄った際、この月末に少し大変そうな手術をされると聞かされてはいました。
しかし対面しての会話には力があったし、とりわけ僕を叱咤する時のもの言いには鬼気すら感じるようだったのに。 

残念ながら生命力にかげりが見えていたことは否定できなかったものの、まさかこんなに早くその日がやってくるとは思いもよりませんでした。 

ただ、毎年必ず元旦に届いていた年賀状が遅れたことに、いささかの不吉を感じたことも事実でした。
 また、添え書きの文面も気になってはいました。 

「…おかげで楽しい一年でした。感謝」 

旧年の感謝をいうなら「本年もよろしく」の常套句がつづいてしかるべきでしょう。
それがないまま唐突に「感謝」で結んであって、年賀というよりお別れの挨拶のようでもあったのです。 

いまになって読み直せば「一年」に「人生」を託したようでもあり、自分に今年がないことをYさんは覚悟していたのかも知れません。 

「カープ猛者列伝」を上梓したことがきっかけで1999年に、当時カープ大野寮の寮長だったYさんと知り合うことになりました。 
パーティとかイベントなどで顔を合わせる程度のおつきあいでしたが、そんな席でしきりに“黒田博樹”を語るYさんを知り、先年「黒田博樹 男気の証明」を書くにあたってあらためて取材をお願いしました。 

それからは親しくおつきあいさせていただき、Yさんの人柄に触れるにしたがって敬愛の念を抱くようになったのです。 

取材した際には不覚にも、黒田博樹氏との関係性にしか着眼できませんでしたが、聞けば聞くほどふたりの関係に浅からぬ縁というものを感じざるを得ませんでした。 

「堀さんの本のおかげでテレビ出演、ひっきりなし」 と、人懐こい顔で自嘲気味に破顔されていたYさん。 
カープへの復帰。日米通算200勝。リーグ優勝。そして引退と、ずっとつづいた“黒田騒動”の後始末をされるようにYさんも頻繁にテレビに露出し新聞紙上を賑わしていられた。

そして黒田博樹氏が野球人生に終止符を打つのを見届けたかのように、Yさんは人生の幕を閉じられた。 
いかにも面倒見の良かった彼らしいエンディングということなのでしょうか。 

カープの初代エース長谷川良平氏の晩年の闘病生活を、ずっと寄り添うように支えておられたYさん。 
その役割を継投して彼にどのように寄り添えるのか、それを考えはじめた矢先のノックアウト。
悔しすぎて涙も出ません。 

今年の早々にと約束したふたりのトークショーは、これでお預けになってしまいました。 それこそお約束の、「あの世で」ということですね。 

思えば、先日の会食のときの会話をノリで撮影させてもらったのは、僕にも別れの予感があったからなのでしょうか。 

これからは追善の供養のつもりで、何度も観ることになりそうです。


カープ大野寮の若手への接し方でもわかります。
いつもいつも他人のために、周りに良かれと精一杯生きてこられたYさん、無理に無理を重ねてこられたのでしょう。

年賀状にもありましたね、
「❉己を後にして相手を思いやる心」と。

本当にお疲れさまでした。
永い眠りを、ゆっくりお休みください。