広島市内、袋町の路上で彼とはばったりと出くわしたことがありました。
異様に引き締まった上半身と、真っ黒に日焼けした顔。さして大柄ではありませんから、街の雑踏に紛れてしまったとしても何の不思議もなかったでしょうが、オーラの輝きがちがいました。
それがサンフレッチェ広島の佐藤寿人選手であることは、すぐにわかりました。
あれはサンフレがJ1リーグ初制覇した直後のことだったのでしょう、とくにサッカーに関心があるわけでもないぼくが、彼をレジェンドとしてしっかり認識したのですから。
あのころ佐藤寿人選手はもっとも輝いていたはずです。
サンフレッチェ広島は彼を中心にチーム作りがなされ、彼を生かすためのフォーメーションで戦い、彼がゴールを積み上げるたびに強くなっていったようなチームでした。
文字どおり『佐藤寿人のチーム』といっても過言ではなかったでしょう。
まさにチームの顔、レジェンドである彼が、そのサンフレッチェを去ってJ2陥落が決まった名古屋グランパスエイトに移籍することが昨日発表されました。
その一報に接したとき、なんともいえないわびしさとともに脳裏をよぎったのは、負い目といってもいいような不思議な感覚でした。
「もし、広島市民球場跡地にサッカースタジアムができていれば、いや、完成までのロードマップさえできていれば、こんなことにはならなかったのではないか…?」
そんなことを思うと、「自責」と「後悔」と「口惜しさ」の三本の矢を胸にくらったような気がしたのです。
彼はチームの中心選手として、また優れたアスリートとして、ずっと専用スタジアム(複合型もふくめて)の必要性を痛感していたようです。
それでサンフレの初優勝をきっかけに、堰をきったように市内中心部へのスタジアム建設をしきりに訴え、願うようになりました。
もちろんほかの選手たちにしたって、「優勝すればサッカースタジアムを作ってもらえる」という切なる思いが大きなモチベーションとなっていたであろうことは、彼らのそれからの言動を見ていれば明かです。
「広島市内中心部にサッカースタジアムの建設を!」
初優勝が起爆材となって、このムーブメント。
僕はわざわざスタジアムにサンフレのゲームを観に行くような熱心なファンではありません。
だからサポーターが広島市民球場跡地にスタジアムを望んで地道に活動していることを知らなかった。
ただ、跡地をどうするべきなのか、跡地はどうあるべきなのかを追求していったら、「跡地はサッカースタジアムであるべきだ」という結論にいたった。
そしてこれはまた多くの市民の思いでもあったのです。
したがって、当事者のサンフレ側、サポーターからいっても、市民県民のコンセンサスとしても市民球場跡地にサッカースタジアムができることが願いだったし、そうあるべきなのです。
しかし、その願いはいつも不可解な理由でいなされかわされ、姿の見えない勢力によって阻止され覆されてきました。
その、いつまでもつづく“失われた時間”のなかで、つぎつぎにサンフレの主力選手、有望選手はチームを去っていきました。
初優勝から今回の佐藤寿人選手にいたるまで、はたして何人の選手がサンフレを去っていったのでしょうか。
高萩洋二郎、西川周作、石原直樹…。
彼らが移籍することになった動機や理由はさまざまでしょう。
でも、遅々として進まないスタジアム建設に業を煮やして、また落胆して去って行ったわけではないよ、とはたして誰がいい切れるのでしょうか。
いやそれどころか、スタジアムの建設を声高に叫びながら去っていった選手たちが何人いたことか。
ついこの間、ブンデスリーガのクラブに移籍した浅野拓磨選手は、たしかサッカースタジアム建設の気持ちを置き土産にして旅立っていったと記憶しています。
佐藤寿人選手の場合、かりにスタジアムができていれば、あるいは建設が決まっていれば、移籍など考えずにそのままサンフレの選手でありつづけた可能性は高かったでしょう。
なんといっても自ら望んでいた悲願だったわけですから。
広島のユースから育った訳でもなく、よそから移籍して来て、いつからかもっとも広島を愛し、サンフレッチェを体現していた佐藤寿人というサッカー選手。
いっぽう、広島にいながら広島市民のひとりでありがら、そんな彼の思いに報いてやることができなかった自分たち。
顔向けできない、とはこのことです。
もしかして、それでも移籍していたよという決断だったのかもしれません。
それでも、サンフレかグランパスかの選択の局面で、サンフレの秤の上には新スタジアムは載っていて欲しかった。
その残念な思いは消えません。
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ことし広島東洋カープが25年ぶりに優勝しました。
その結果を生んだ大きな要因が新球場への移転にあったことは誰も否定することはできないでしょう。
素晴らしいスタジアムをホームグラウンドにしているというプライド。
球場の魅力がファンを呼び、その応援が選手の大きな支えになっての優勝だったことは監督、選手が口にしていることです。
それほど選手たちがプレイする“器”というのは大きな意味を持っている。
ひるがえってサンフレッチェ。
まさに「応援に来てくれるな!」と言わんばかりにアクセスの悪いスタジアム。
ピッチからスタンドが遠い陸上競技場で、ファンの存在も遠いなかで選手たちは健闘し、カープの今回の優勝に先んじて3回の優勝を重ねてきました。
その中心にいたのが、佐藤寿人選手でした。
その彼らの健気な健闘から生まれたこのドでかい成果を持ってしても、彼らが望むスタジアムへの夢ははぐらかされ、希望は覆されてきたのです。
はからずも、このシーズンオフにカープの黒田博樹投手の引退と、サンフレッチェの佐藤寿人の移籍が重なりました。
広島の2大スポーツから、ふたりのビッグスターが去ることになったわけです。
しかしその不在のあり方は対照的なものとなってしまったのではないでしょうか。
カープの黒田投手の場合は、ズムスタの芝生をさらに青く染めて去っていったような輝かしさがあるのに対して、佐藤選手の方は彼が打ち立てた金字塔のまわりにわびしい「跡地」が残ってしまったような感すらある。
このちがいは、はたしてどこから生まれたのでしょうか。
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『カープが広島市に5億円寄付』
きのう『佐藤寿人移籍』の報が伝えられた前後に、こんなニュースが流れました。
淋しいニュースと景気のいい話。
このコントラストは鮮明でした。
まさか意図してのことではなかったのでしょうが、「嫌みかい!」と叫んでしまいそうでした。
料亭『広島伏魔殿』。
ここの「サンフレの間」では、今しも市民を交えての送別会をしみじみとしているのに、その隣の「カープの間」では金満おやじが芸者に大盤振る舞いしてハシャイでいる。
そんな景色がつい頭に浮かんで、正直いい気はしませんでした。
広島市民への還元、感謝の気持ちとしての寄付。
そのこと自体は、悪いことではない。
ありがたいことです。
でも、ちょっとここで考えてみてほしい。
広島市はカープからの寄付金5億円のうち、1億円を原爆ドームの修理に使うことにしたそうです。
原爆ドームの修繕費。
それはもちろん、本来は広島市が負担すべき予算ですね。
これに今回、カープからの寄付金を補填する。
その一方で広島市は、カープの本拠地であるズムスタの「修繕費を積み立てる」という名目でネーミングライツを使って新広島市民球場の名前を売りに出して、その売上をカープに“上納”している。
なんのことはありません、本末転倒のことを両者はしていることになります。
広島市がやるべき事業の予算をカープが用立て、カープが捻出すべき費用を広島市が工面しているという。
ここまでいくと支持支援のレベルを越えて、ズブズブといわれても仕方がない関係が透けてみえてくるようです。
そんな不明朗な金のやりとりをするくらいなら、いつまでも広島市民球場跡地にスタジアムが建設できないことで苦戦を強いられているサンフレに寄付してはどうか。
そんなことを思ったのは、ぼくだけなんでしょうか。
カープもかつては広島市民球場に育ててもらった球団。
それこそ感謝の気持ちも込めて、そうしてもよかったんじゃないでしょうか。
どうもカープ球団には、同じ広島を基盤にするプロのスポーツチームとして共に栄えて行こうという発想がとぼしいようです。
ここまで何年も迷走をつづけてきたサンフレのスタジアム問題を後押ししよう、という気持ちが一向に伝わってきません。
それどころか、立地としてはほとんど可能性のない候補地である宇品の「みなと公園」が、わしゃええ思うとる、と球団トップが無責任に推してみたりと、もしかしてサンフレのスタジアムが市民球場跡地に出来ては困るのかな、と邪推されても仕方ないようなスタンスですらあるのです…。
とまあ、こんな繰り言をいつまで並べていても送別の辞にはなりませんね。
ただただ佐藤寿人選手には、申し訳なく。
新天地の名古屋グランパスでは、素晴らしいスタジアムで縦横に疾駆してサッカーの素晴らしさを思う存分味わっていただきたい、と祈るばかりです。
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