2016年11月6日日曜日

ズムスタのマウンドに見た神の影


いきなりそのドラマチックなシーンを目にしてしまったからでしょう、すこし混乱してしまいました。
優勝報告会のセレモニーで、ズムスタのマウンドの縁に片膝立てて黒田博樹が俯いていた、あの光景です。

ホームベースからのセンターラインを意識してポジションを取ったそれは明らかに祈りのポーズでありながら嗚咽している様子でもあって、彼の心の動きがはっきりとはつかめませんでした。
ただ得も言えぬ感動だけが伝わってくる、不思議な光景…。

あらためてネットで動画を探して、その経緯が初めてわかりました。

黒田投手がファンに感謝を込めて、ゆっくりとスタンドを一周しながらボールを投げ入れてから、新井貴浩選手に促されてマウンドに行くと、そこに待ち兼ねたチームメイトが集まっていて、彼の背番号「15」にちなんで15回の胴上げ。

その感動の余韻の中でチームメイト一人ひとりと抱擁し終わった彼が、感極まってそこにうずくまった、ように見えました。

セレモニーの中での挨拶でも、必死に涙をこらえている様子がうかがえましたから、それまで抑えていた感情が、そのとき堰を切ったように溢れてしまったのでしょう。

そう思っていました。

ところが一夜明けて、朝の新聞でその報告会の模様を報じる記事を読んで、ほかに彼の気持ちを動かした要因があったらしいことを知りました。

「ずっと野球の神様がいると思ってやってきた。20年間のお礼をした」

これがことの真相だったのです。

もちろんチームメイトとの別れ、スタンドのファンへの思いもあったのでしょうが、野球の神様にお礼をしたそのとき、彼ははからずも涙してしまったのです。

「ありがとうございました」と彼が告げたのに、きっと野球の神様から何かを伝えてきた気配があったのでしょう。

「お疲れ様でした」

「よくやった」

ことばにすれば、そんなことだったのかもしれません。

野球シーズンの最後で優勝を体験できたように、野球人生の最後にはっきりと野球の神様の存在を確認できたことで、彼の涙腺は破れてしまったのではないでしょうか。


これまで黒田博樹という男をウォッチしてきたことに重ねて、ことの経緯を思い返してみると、ある考えに至りました。

「黒田博樹という投手の選手生活は、このズムスタのマウンドに魂を吹き込むためにこそあったのではないか」

そんなことすら思い浮かべてしまうほど、あの黒田投手の行為は確信に満ちたものでした。

唐突に思えるかもしれませんが、彼の来し方、発言や行動をふりかえってみると、やはり「ただものではなかった」という感が強いのです。

彼の野球人生は彼自身が語っているように、未来に明るい展望が見えていたわけではありませんでした。
高校時代はずっと補欠選手であったし、プロでもどこまで活躍できるかわからないような投手。まさかここまでの選手になろうとは、まわりも本人も考えていなかったはずです。

でもいま逆に、この黒田博樹の野球人生をさかのぼってみれば、そうとしか思えないほどの見事な軌跡を彼はなぞってきたように見えます。

『一歩ずつ確実にゴールに向かって来た人生』
その最後があの行為だったのですから、そう思わざるをえません。

彼はあの行為に先立っての花束贈呈で、マウンドの上でやろうとした新井選手を制して脇でやってほしいと促していました。

きっと、ずっと前から黒田投手はこの神聖なマウンドで、この“儀式”をしよう、いや、しなくてはならないと考えていたのでしょう。

もしかしたら、自分の魂はそのために生まれたきたことを、彼の潜在意識は知っていたのかもしれません。

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カープが以前本拠地にしていた広島市民球場が解体されたとき、行政レベルでは鎮魂のための儀式は一切行われていません。
また、新広島市民球場“ズムスタ”に移るに当たっての入魂の儀式も、たぶん公には行われていなかったはずです。

その儀式を黒田投手がしてくれた、今ははっきりそう理解しています。

思えば1987年に衣笠祥雄氏が現役を引退するにあたって、彼は球場のマウンドから野球の神様に語りかけ、感謝の気持ちを表明していました。

あのとき彼が広島市民球場に降ろした野球の神様は、まだそのままあたりに彷徨っていたのです。

それがようやくきのう、黒田投手の感謝と祈りとによってズムスタに降りることができた。
衣笠祥雄と黒田博樹という二人の偉大によって、ようやく旧広島市民球場の鎮魂と、新球場の入魂は叶ったことになります。

だとすれば、黒田博樹は本当に素晴らしいことをしてくれたことになります。
ぼくはいまそれを信じていますし、とてつもない彼の偉大にいまさらながら驚き感動しています。

「黒田博樹よ、お前は何度おれを泣かせれば気がすむんだ!」

ネットのコメントか何かで見つけたフレーズ。
ここ最近のお気に入りの言葉でした。

このことばを、いま借り物としてではなく自分のことばとしていいたい思いでいっぱいです。

「黒田博樹よ、お前は何度おれを泣かせれば気がすむんだ!」と。

そして、野球の神様にもいわせてほしい。

「黒田博樹という素晴らしい選手を、本当にありがとうございました!」

2016年11月5日土曜日

黒田博樹が届けてくれた41年前の忘れ物


ブログでは一応「最後のあいさつ」はしたつもりでしたが、あらためて優勝の祝賀バレードでねぎらいのことばをかけてきました。

黒田博樹投手のきのうの引退記者会見を観て、また胸がザワザワざわついてしまったせいでしょうか。
思い立って、チャリを転がして出かけることにしたのです。

カープが初優勝したときのパレードは、東京にいたために見ることができせんでしたから、まあ41年前の忘れ物を取りに行ったという意味もあるのですが。

正直いうと、なにごともなければあのテレビの中継、彼の引退会見を見過ごしていたかもしれません。
普段はめったにテレビは観ないので、テレビ番組に目を通すこともなく、記者会見の中継があること自体を知らなかったからです。

ただきのうは、早朝にFaceBookのメッセージ欄に某テレビ局から「黒田博樹投手について、お話を聞きければ」という依頼が入っていて、そのことを家人に話していたこともあって、彼の特番があることを直前になって彼女が教えてくれたのです。

それで、あさましくもコメントの材料を漁る気持ちもあって、あわててテレビのスイッチを入れて、彼の引退会見を食い入るように観ることになったというわけです。

結局、某テレビ局の番組はきのうオンエアの番組で、その当日に気づいて開いたというお粗末さまで、「なんのこっちゃ」のオチだったのですが、これも何かの縁だったのでしょう。

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黒田投手の会見といえば、カープに復帰する際の一連のものは、ことがことだっただけに強烈なインパクトのあるものでしたが、今回もまた印象深いものでした。

こんな表現があるかどうかしりませんが「会見巧者」ですね、彼は。
記者とのやり取りが、えもいえぬ味わいがあってある種の格調すら感じます。

質問に対して、はぐらかしや嘘がなく、まっすぐに答えてくれる。
だから、そのひとことひとことが淀みない。

それで好感がもてるし、引き込まれるように聞いてしまうんですね。
とくに最近では堂に入ってきて、ユーモアまで交えてくれるのですから。

「新井がこのあとFA宣言の記者会見するらしいんで、できればそっちに行きたいかな」

このジョークが出たときは、会見場鷲づかみの大爆笑でしたね。

上質の問答劇を堪能したような感動すらあって、20分あまりの会見が、またたくまに過ぎていました。

それは黒田博樹というキャラクターがあってこそ演出できるもので、たぶんいまの日本のプロ野球選手でこんな存在感を持った選手はいないでしょう。

—引退したまの心境は?

会見の冒頭だったでしょうか、代表質問で聞かれて彼は澱みなく答えていました。

「安心(安堵)した」

と。

そのことばを聞いて、多くのファンも安堵したことでしょう。
彼が未練なく引退してくれることを確認できたのですから。

—現役生活を振り返ると?

こうも聞かれて、

「出来過ぎの現役生活でしたね」

これも間髪入れず、彼は口にしてました。

「出来すぎた現役生活を終えて、安堵している」

このことばは、彼のいつわらざる心境であったと同時に、われわれファンに対する最大のハナムケのことばにもなったはずです。

ぼく自身も素直にうなずけたのは、彼の心境がわかると同時に、意味あいはちがいますが、こちらにも安堵したような気持ちがあったからです。

というのも、黒田博樹という選手が現役でいる限り、いやでも彼と向き合わざるをえない。
とくに物書きのようなことをしていると、ファンとしてばかりではなく、つい対象として彼を見てしまう。

すると黒田投手の大きさ、はかりしれない人間力に、ともすれば圧し潰されそうになってしまいそうな強迫観念のようなものさえ感じてしまっていたからです。

しかも、彼を意識すればするほど、どうしても自分の至らなさに思いがいってしまうようなところがあったのも事実です。

そんな緊張感というか、強迫観念がら自由になれる。
そんな安堵感を、彼の引退会見を観ながら思ってもいたのです。

彼はまた、これからの身のふり方を訊かれて「しばらく野球の世界から離れたい」との意向も表明していました。

それを耳にしたとき、「これでようやく黒田博樹から引退して、この2年間つづいた黒田現象の熱気から解放される」と、胸を撫で下ろしたことも事実です。

いつまでも見ていたい投手であるのに、いつまでも見ていることができない投手。
変な表現ですが、今シーズンの黒田投手は、ぼくにとってそんな存在だったのかもしれません。


選手や首脳陣、関係者を2階部分に乗せてパレードしていったバスは、肉眼では顔がはっきり判別できないほどの距離を移動していって、どれが黒田やら新井やらわかりませんでしたが、とりあえず全車両が過ぎ去ってから、ひとりひっそりと声をかけました。

「黒田お疲れさん、ありがとう」と。

そのとき、なぜか突然に目頭が熱くなってしまったのに自分自身が戸惑ってしまいました。

あの熱狂のペナントレースを制してカープが優勝し、黒田と新井があの感動的な抱擁をしたのを目にしたときですら意外に冷静だった自分だったのに…。

ただ梢の影にパレードのバスが消えて行くのを見送っただけなのに…。

でも、このひと粒の水滴にもならなかった涙のおかげで、ぼくの2016シーズンもようやく大団円を迎えることができました。

ささやかな感動で最後にゴールのテープを切ることができたのですから。

たしかこれまで口にも活字にもしなかったこのことばも、やっとストレートにいえるような気がします。

「広島東洋カープ、優勝おめでとう!」


2016年11月4日金曜日

解き放たれることども



きのうから、お粥で復食はじめました。

柔らかいもの、刺激のないものを避けて、納豆や豆腐、タマゴといった高タンパクのものを少量、ゆっくりたくさん噛んで食べてます。

食べ物のありがたさ、おいしさがしみじみと感じられて、この時期も悪くありません。

からだが、「ちょっと急ぎ過ぎだよ」とサインを送って来たので、この昼は抜きましたが…。

だいたい断食の初心者の方は、この復食期で転けるんですね。

「やったー、断食終わった!」とばかりに、あれもこれもとやたらに食べはじめてしまうんです。

これをやると、元の木阿弥。
リバウンドです。

復食期に断食の効果が劇的にあらわれてくるので、ここで過食してしまってはこれが期待できないどころか逆効果。
からだに負担をかけただけになってしまいます。

これでは、せっかくの「辛抱の時間」が台無しです。

断食は、食を断っているときより、もどすときの方が大事。
この時期を断食といってもいいくらい大事な時期なのです。

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辛抱といえば、ことしのプロ野球は、広島東洋カープが25年ぶりの優勝、また横浜DeNAベイスターズが初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど、低迷つづきだったチームが長かった桎梏から解き放たれたシーズンでした。

海の向こうの本家メジャーリーグでは、シカゴカブスが108年ぶりにワールドシリーズを制して、ファンや関係者はようよく「ヤギの呪い」から開放されたと喜んでいるようです。

もうみなさんご存知でしょうが、なんでも1945年にリグレーフィールドで開催されたワールドシリーズでヤギとの入場を断られたビリーさんが激怒して、「カブスは二度と勝てないだろう」と捨て台詞を吐いて去っていたという事件があって、その彼(とヤギ)の恨みがずっと呪いとなってカブスは勝てなかったのだというホラー仕立てのストーリーが生まれていたのですね。

スタジアムでヤギといっしょに観戦しようという「親心」を微笑ましく思うものの、スタジアムにヤギを連れ込もうとする飼い主の蛮勇にあきれていたのですが、実際にはそれまで何事もなくビリーさんはヤギといっしょにリグレーフィールドで観戦できていたというのですから驚きです。

牧歌的な時代というか、山羊歌的な時代だったのですね。



長いくびきから解放されたチームが続出した今シーズン。
日米の球界で起こったシンクロニシティーとも言えそうなこの現象は、もしかして、日本が70年の米国からの隷属から解き放たれる幕開けの年でもあるのかもしれません。

そう思いたいし、そう考えると、このたびのカープの優勝がさらに大きな輝きを帯びてくるように思えるのです。

そうそう、ヤギならぬ蛇足になりますが、かつて阪急ブレーブスの本拠地であった西宮球場は、このリグレーフィールドを模してつくられたといわれています。

その西宮球場の「解体レポート」を以前からYouTubeにアップしていますが、その電子書籍版が藤井寺球場につづいて近々刊行される予定です。

そのときはまた、あらためてご案内いたします。


こちらがパート2


2016年11月3日木曜日

「藤井寺球場」が電子書籍化されました。


「球場巡礼・藤井寺球場」が電子書籍で発売になりました。


きょねんから出す出すと大ボラ吹いたまま、いっかな実現することなく今日まで来てしまいましたが、ようやくご案内できることになりました。

ほっとしやした。

じつは自分でさくさくと電子書籍化するつもりでいたのですが、意外に面倒でややこしいのですね、電子化というのが。

それで、もたもたしているうちに、いたずらに時間だけが過ぎてしまっていたのですよ。

それがこの春でしたか、東京野球ブックフェアで拙著並べて行商していたところに、もっさりとあらわれた男性がいて、名刺交換したらなんと編集者。

これもなにかのご縁でしょう。
「じゃ、ついでに頼んじゃおうかな」ということでお願いすることにして、ようやく発刊にこぎつけたというしだい。

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これまで60以上の野球場をまわってますが、この藤井寺球場はとくに思い入れがつよいところ。

はじめて訪れたのが1996年だったと思います。
球場巡礼をはじめた年のことで、いまは超有名なメジャーリーガーの野球流儀をものしたベストセラーで高名となったスポーツ記者のK氏に案内してもらいました。

そのときの印象が、まずよかった。
藤井寺駅の目の前、住宅地のなかにありながら、空が広い開放的な印象が好もしかった。

つぎに行ったのが、忘れもしない1999年10月7日の近鉄バファローズの最終戦。バファローズの盛田幸妃投手が脳腫瘍の手術から復帰してマウンドにあがった日でした。

薄暗いブルペンからカクテル光線を浴びたマウンドに向かう盛田と、彼を送り出したファンの暖かい声援と拍手。
感動的でした。

あのときブルペンで投球練習をしていた盛田投手を凝視していたんですが、ふたつ並んだマウンドのもうひとつが、なぜか津田恒美の墓碑のように見えたのがいまでも思い出されます。

『炎のストッパー』といわれた元カープの津田恒美投手も1993年、32才という若さで脳腫瘍のため亡くなっていた。

津田は逝ってしまい、盛田は復帰した。(その盛田も残念ながら昨年45才の若さで旅だってしまいましたが)

脳腫瘍からマウンドに復帰した盛田と、生還すらできなかった津田。
このふたりの運命のコントラスト…。

「プロ野球選手と病」
その機微のありように惹かれるように、プロ野球選手たちの周辺にいるトレーナーたちの取材をはじめたのが2001年のこと。

もちろん盛田の件でトレーナーに話を聞くために藤井寺を再訪。
さらにカープにドラフト1位指名で入団し、引退してからは理学療法士となってバファローズの専属となっていた栗田聡氏からもスタンドで草野球を見ながら話を聞きましたね。

それからも広島・東京間の車旅の途中に寄ってみたりしてましたし、なんといっても2004年の最終戦は思い出深い日になってます。

ほんとうに印象的な日でした。

バファローズファンのチーム愛の深さにこころうたれましたし、愛すべきチームを奪われる彼らの心情を思うと胸がはりさけるようで、あの必要もない合併という名の球団消滅を画策した経営者たちを心底から腹立たしく思ったものでした。

そんなこともあって、藤井寺球場はぼくにとって忘れがたい球場となっているのですね。
その思いをこめて書いた小品です。

またいつもの惹句ですが(笑、野球に興味も関心もない方にも面白く読んでいただけると思います。

ちなみに、下が動画版の「藤井寺球場」です。

読んでから観るか?
観てから読むか?

って、ちょっと古くさすぎますね。



2016年11月2日水曜日

断食はつづく


断食4日目、だったかな。
もう浮き世離れしちゃって、曜日もわかりません。

でも集中力は研ぎすまされてきましたね。
早朝に起きて、今度刊行される予定の電子書籍「球場巡礼・西宮球場」の校正をしたのですが、難なく、そんな感じでやっつけてしまいました。

この感覚、この反応は断食を経験したことのないひとにはわからないでしょうね。
なんともいえない爽快感というか至福感とでもいいたいような境地。

でもさすがに、そのあとのシロとの散歩ではふらつきました。
エネルギー枯渇してきたかな、という感じです。

でもここから意外と頑張れるんですね。
というより、ここからが断食の醍醐味というか効果が体感できる佳境といっていいでしょう。

おや?、おやおや?、という変化が実感できます。

きのうの夜は最悪でした。
好転反応が出たんでしょう、頭は重たいし気分は悪いしで。

いまはそれが嘘のように快適です。
散歩で軽い運動をしたのもよかったのでしょう。

絶好調とまではいきませんが、頭のなかの薄靄が晴れた感じ。
すこし口内が舌苔でねばついているのが気になる程度です。

きょうになってようやく本格的な断食モードになってきたというところです。
すこし空腹感が襲ってきたりして、たまに「食べる」ことが頭をよぎるようになりました。

きのうまでは、逆に腹がどんどん膨れてきて満腹感がぬけませんでしたから。

食を断つと腹が凹むんじゃなくて、しばらくは膨れます。
からだの奥でひっそりと惰眠をむさぼっていた脂肪が、叩き起こされて燃えはじめるからでしょうか。

いまも膨らみはあって「腹に異物がある」という感じはぬけません。
でもその膨らみが急激に縮みはじめているような……。

おや?、おやおや?、です。

「勝手にいつまでもやってろ!」

そうお思いの方も多いでしょうが(笑、日曜日には友人たちとの家族ぐるみの会食の約束があるので、残念ながらぼちぼちもどしていくつもりです。

ただその会食というのが、お好み焼きなんですね。
小麦粉のクレープに小麦粉で作った麺を入れて焼く、あれです。

グルテンフリーのぼくにとっては、できれば避けたいもの。
食べた後のつらさ、気分の悪さが思い起こされて、気持ちがブルーになりそうですわ。

家では米粉のクレープに小麦ではない麺で作ってますから、「米粉持ってこうよー」と同居人にダダをこねたら、「面倒だし、迷惑でしょ」と一言の元に拒否されてしまいました。

いまこうして味わっている至福感、爽快感が、一席の宴で台無しになるかと思うと気も重くなろうというものです。











2016年11月1日火曜日

「食を断つ」という栄養学


断食をはじめて3日目の朝を迎えた。
とくに気張ってはじめたわけではなく、ふいっと思い立ってのことだ。

いつものことだが、すこし過食気味になっていて、そうなるとますます意地汚くなって、ほとんど餓鬼状態になってしまう。
それがいくところまでいくと、さすがにからだからサインが出てストップがかかるのだ。

だいたい過食になるのも当たり前で、外に出ていればひとに会ったり移動したり、ついでの用もたしたりして時間は費やされるが、ずっと家にいるような生活をしていると、やること考えることは限られてくる。

一応は仕事と、それに類する雑事で日がな一日過ぎてしまうのだが、そのしまりのない時間のケジメが、どうしても食事になってしまう。

それで、わかっていながら過食に過食を重ねるようなことになってしまう。
とくにぼくの場合、酒をやめてからは甘いものに趣向が走ってまずいことになっている。

間食に歯止めがかからなくなってしまうようなことがよくあって、先だっての日本シリーズでも、観戦しながらちょっと手をだしたアーモンドチョコレートを、緊張のたびにひと粒、興奮のたびにひと粒と、気がついたら一袋食べあげてしまっていた。

日々、淡々と正しい食事をしていれば、断食までするようなことはないのだ。
とはいえ、ぼくの断食は多少趣味的な意味合いもあるので、なにか自分なりの口実をみつけてはやるにちがいない。

今回の場合は、きょねんからずっと抱えている肩の痛みの原因が、砂糖の過剰摂取からきているかもしれないと知ったこともあって、砂糖断ちという気持ちもあってのことだ。

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断食をすると、自分がどれだけの毒や老廃物を溜め込んでしまっていたかが体感できる。
そして、それらが徐々に輩出されていくときの快感も味わえる。

また「行」を達成したような、不思議な満足感がある。
ちったぁましな人間になったかな、そんな感覚といえばいいか。

これがあるから、定期的に断食がしたくなるのだ。

断食は食事を摂らないのだから、行為としては消極的なものといえるが、健康面からみれば、あるいは精神修養という意味からもこれほど積極的なアプローチはない。
本人に強い思いがなければなかなか踏み切れるものではないし、それを成し遂げたあとの効能は劇的だ。

いま野球界でも食事の管理に気をつけている選手は少なくないが、大谷翔平のメニューだったか「断食」が意識的に組み入れてあるのを見たときは驚いた。

ダルビッシュの食事管理の徹底ぶりは有名だが、からだが資本のアスリートのことだ、それなりの意識があって当然といえば当然なのだが。

縁あってときどき高校野球の現場に取材にいったりするが、関係者の意識の高さに驚いてもいる。
たとえば、学年と学校を問わず思いがけずたくましい彼らの体躯とか、グラウンドで見かけるちょっとした異変は、そんなところからもきているのだろう。


かつて西武ライオンズ黄金時代を築いた広岡達朗監督が、選手に玄米食と節酒を推奨したことがあった。
推奨というより強制に近かったようで、選手からはかなり反発があった。

あんなまずいもの食えるかよとか、なんでおれたちだけ飲んじゃいけないんだよ、という選手たちの不満の声が外野まで聞こえてきたものだ。

しかし、広岡ライオンズはすぐに優勝という結果を出し、それから黄金時代を築くことになった。
もちろん玄米食だけで優勝できたわけではないだろうが、その効用はちいさくなかったように思う。

というのも、自分が玄米食にしてみて、そのよさを体感したからその手応えがわかるのだ。
きっかけはもう忘れたが、玄米食を腹八分目でつづけて3か月くらい経過したころだったろう、思い出したように体重計に乗ってみたら15キロ体重が落ちていた。

野球選手たちのように鍛え上げての体重ではなく、ぶくぶくの過食デブだったのがそれだけ痩せたのだ。
知らず知らずのうちに理想の体重になっていたことになる。

そうなると筋肉まわりの無駄な脂肪もとれるはずで、それまで意識したことがなかったというか、できなかったインナーマッスルの存在がはっきりとわかるようになった。
筋肉そのものが強化された感じもあって、動作を支える筋繊維が伸縮しているのがよくわかった。そして筋繊維が動きに力とスピードを与えていることも。

感覚的には身体能力が10%はあがったのではないか、そんな感覚があった。
そのときライオンズの強さの秘密の一端をのぞきみたような気がしたものだ。

よくペナントレースの何試合かは監督の采配で決まるとか、トレーナーの存在があるといわれるが、全体を通して勝敗に影響を与えているのは食事の取り方と内容なのかもしれない。


2016年10月31日月曜日

『黒田博樹伝説』のはじまり

黒田博樹ネタの連投で失礼。

広島東洋カープが黒田博樹投手の背番号「15」を永久欠番とすることがわかったという。

まずは、「おめでとう」の祝意を表明したい。
これで彼がカープ球団に与え残した功績は具体的な栄誉として継承されることになった。

たしか日本シリーズがはじまる前だった、黒田投手の「15」番を“準永久欠番”にすることも検討しているという球団サイドの意向(松田元オーナーの意向というべきか)が伝えられていた。

「まだ具体的には考えていないけど、(「15」番を)つけられるような選手はおらんだろ。何十年もすれば出てくるかもしらんけどな」

と、最大限に持ち上げながら、永久欠番ではなく「準永久欠番として球団あずかりの空き番」にするつもりだとオーナーは語っていた。

そのときは、この扱いに「なぜ永久欠番ではないのか?」と驚き、また疑問に思った。
これだけの功労者を「準」扱いはないだろうよ、と。

それで、あたためて各球団の永久欠番を調べてみた。
するとあらためて、永久欠番の重みというものを感じざるをえなかった。

カープでは山本浩二の「8」と衣笠祥雄の「3」が永久欠番になっているのは言わずもがな、ジャイアンツ長嶋茂雄の「3」や王貞治の「1」とか、すぐにいくつもの永久欠番に思いいたる。

だから、かなりの数があるように思い込んでいたのだが、偉大な選手を多く輩出してきたジャイアンツは別にして、永久欠番はそれほど多くはない。(詳しくはこちらを→野球界の永久欠番

ならば黒田投手の「準永久欠番」もありか、と納得していたのだが、今回めでたくランクアップして永久欠番ということになった。

はじめ準永久欠番にすればじゅうぶんと踏んでいたらしいオーナーも、内外からの異論、提言、批判、抗議、いろいろあったのだろう。
そんな声に押されるように「準」をはずしたことで、晴れて永久欠番は決定したということのようだ。

新聞報道によると「(この意向に対して)球団内に異論はなかった」という。
もちろんそんなものが出ようはずもない。
当のオーナー本人の意向なのだろうから、意見できるはずもない。

このあたりが、よくも悪くも小回りがきき決定が早い個人商店の特徴というところだろう。

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同オーナーは「一般の価値観を覆し、成績だけでなく、社会的に影響を与えた投手。この歴史を後世に残すべきだ」と、その理由を語っている。

「成績だけでなく」と、あえて断っているように、成績や記録のみから判断すれば、たしかに黒田投手のそれは少し物足りない。

日米通算200勝といっても、200勝だけなら純国産で先輩の北別府学氏が過去に達成している。
しかし彼の背番号「20」は準欠番となり、いまは永川勝浩投手が背負っている。

タイトルにしても最多勝利と最優秀防御率のタイトルを各一度獲得しているだけ。
その程度の選手なら、球界にはいくらでも名前をあげることができる。

優勝への貢献度でいえば、最後の最後に1回のリーグ優勝だけだ。

それでも彼の永久欠番に異をとなえるファンはほとんどいないだろう。
どころか、諸手をあげて歓迎しているはずだ。

チームへの貢献ということでは、文句のつけようがない。

かつて津田恒美投手が、それほどの実績がないにもかかわらず野球殿堂入りした。
そのことで賛否両論の議論がわきあがり、選考のあり方に疑問が投げかけられることになった。

もしかするとこのときと似たような疑問も、一部では出るかもしれない。
それはそれで議論すればいいし、それも含めてのプロ野球だ。

それにしても津田恒美しかり、黒田博樹しかり、どうもカープというチームには、不思議な人間的な魅力で実績や記録をぶっ飛ばしてしまうような選手が出てくる土壌があるようだ。