正式なタイトルは「藤井寺球場 近鉄バファローズが消えた日に」です。
きょねんから出す出すと大ボラ吹いたまま、いっかな実現することなく今日まで来てしまいましたが、ようやくご案内できることになりました。
ほっとしやした。
じつは自分でさくさくと電子書籍化するつもりでいたのですが、意外に面倒でややこしいのですね、電子化というのが。
それで、もたもたしているうちに、いたずらに時間だけが過ぎてしまっていたのですよ。
それがこの春でしたか、東京野球ブックフェアで拙著並べて行商していたところに、もっさりとあらわれた男性がいて、名刺交換したらなんと編集者。
これもなにかのご縁でしょう。
「じゃ、ついでに頼んじゃおうかな」ということでお願いすることにして、ようやく発刊にこぎつけたというしだい。
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これまで60以上の野球場をまわってますが、この藤井寺球場はとくに思い入れがつよいところ。
はじめて訪れたのが1996年だったと思います。
球場巡礼をはじめた年のことで、いまは超有名なメジャーリーガーの野球流儀をものしたベストセラーで高名となったスポーツ記者のK氏に案内してもらいました。
そのときの印象が、まずよかった。
藤井寺駅の目の前、住宅地のなかにありながら、空が広い開放的な印象が好もしかった。
つぎに行ったのが、忘れもしない1999年10月7日の近鉄バファローズの最終戦。バファローズの盛田幸妃投手が脳腫瘍の手術から復帰してマウンドにあがった日でした。
薄暗いブルペンからカクテル光線を浴びたマウンドに向かう盛田と、彼を送り出したファンの暖かい声援と拍手。
感動的でした。
あのときブルペンで投球練習をしていた盛田投手を凝視していたんですが、ふたつ並んだマウンドのもうひとつが、なぜか津田恒美の墓碑のように見えたのがいまでも思い出されます。
『炎のストッパー』といわれた元カープの津田恒美投手も1993年、32才という若さで脳腫瘍のため亡くなっていた。
津田は逝ってしまい、盛田は復帰した。(その盛田も残念ながら昨年45才の若さで旅だってしまいましたが)
脳腫瘍からマウンドに復帰した盛田と、生還すらできなかった津田。
このふたりの運命のコントラスト…。
「プロ野球選手と病」
その機微のありように惹かれるように、プロ野球選手たちの周辺にいるトレーナーたちの取材をはじめたのが2001年のこと。
もちろん盛田の件でトレーナーに話を聞くために藤井寺を再訪。
さらにカープにドラフト1位指名で入団し、引退してからは理学療法士となってバファローズの専属となっていた栗田聡氏からもスタンドで草野球を見ながら話を聞きましたね。
それからも広島・東京間の車旅の途中に寄ってみたりしてましたし、なんといっても2004年の最終戦は思い出深い日になってます。
ほんとうに印象的な日でした。
バファローズファンのチーム愛の深さにこころうたれましたし、愛すべきチームを奪われる彼らの心情を思うと胸がはりさけるようで、あの必要もない合併という名の球団消滅を画策した経営者たちを心底から腹立たしく思ったものでした。
そんなこともあって、藤井寺球場はぼくにとって忘れがたい球場となっているのですね。
その思いをこめて書いた小品です。
またいつもの惹句ですが(笑、野球に興味も関心もない方にも面白く読んでいただけると思います。
ちなみに、下が動画版の「藤井寺球場」です。
読んでから観るか?
観てから読むか?
って、ちょっと古くさすぎますね。
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