2016年12月21日水曜日

木肌に映る懐かしい原風景




すっかり郷野小学校に魅入られてしまった私。
無理をたのんで校舎の内部を見学させてもらいました。

案内をしていただいた藤田覚治校長先生と校長室でしばし歓談。

私が同じ安芸高田市内で手づくり野球場「ドリームフィールド」をつくって遊んでいたことはご存知で、話題はいつか校庭の天然芝に。

ドリームフィールドも郷野小学校の校庭といっしょで、いちおー内外野総天然芝でしたからね。

「ぼくたちの場合は金がなかったので種を蒔いて育てたのですよ、あっはっはっ」

昔の自慢話をするようになっちゃおしまいだななんて思いつつも、つい自画の自賛はおさまらず…。


「ところで芝生は、なにを?」と、校長先生が質問されました。

さすがに良い子のように「ハイ!」と元気よく手をあげることまではしませんでしたが、私はわが意を得たりと答えました。

「春夏秋冬、いつもグラウンドがグリーンになるように2種類蒔いたのですよ」と。

「ほっ、ほー。で、なにとなにを?」

「えっとですね、バミューダグラスとケンタッキー…」

といったところで、ついケンタッキーフライドチキンが頭に浮かび、
「いやいや、フライドチキンじゃなくてなんだったっけ」と、頭が混乱したとたんに「ブルーグラス」が思い出せなくなって、「ケンタッキーブルーグラス」という芝生の名前は木造校舎の上に広がりはじめていた青空の彼方に消えていってしまいました。

先生に問われると緊張して答えに窮してしまうのは、小学校時代から変わらない性癖のようです。(笑


ところで校庭が天然芝であるがゆえに手入れは大変なわけで、その作業を地域のみなさんが協力してやってくれているのだとか。

つまりは学校のOB・OGたちがこどもたちのために、自分たちの母校のためにと整備のお手伝いをしてくれているのですね。

「先生をはじめ、地域のオトナたちに守られている」

そんなやさしさに包まれたこどもたち、そして木造校舎なのです。


「それではご案内しましょう」
そういって校長先生が最初に見せてくれたのがこの衝立て。

邪悪なものが入らないように
玄関に立てておくやつですね。

それってまさか、私が進入禁止とか? ^^;


正面玄関から入ってすぐの階段です。

年季でくすんで黒光りするこの威厳はどうでしょう。
これが郷野小のシンボルなんだとか。

わかる、わかる。



どうですこのピカピカ廊下。
米ぬかを詰めた「ぬか雑巾」で拭くとこうなるのです。

鉄筋コンクリートはときとともに劣化するばかりですが
木造の廊下は老化しらず、なんちゃって。
使えば使うほど光沢がまして味がでるんですね。

木造校舎の定番となった感のある雑巾がけタイムトライアル。
ここでは「ぬかピカレース」というらしいですが
それを毎年やっているんだとか。

いいですね、校舎のお背中流しているみたいで。
孝行の念とか感謝の気持ちとかが伝わってくるようです。


今年の在校生は61名。
校舎にはそれだけの柱があるので
ひとりひとりにあてがわれて
その成長ぶりが記録できるのですね。

「柱のキズはおととしの〜」
なんて歌がありますが
ここでは「柱のしるしは6年間の〜」の“マイ柱”。

文字通り「校舎とともに成長していく」こどもたち。


廊下に斑点のように浮かんだシミは
ツバメのフンの跡だそうです。

毎年、季節になるとツバメが飛来して巣を架ける。
そのツバメたちがこの廊下を
こどもたちと戯れるように飛翔する様子は
さぞや和やかな景色でしょうね。

そういえば半世紀も前に同じ木造校舎で学んだ私にも
同じような記憶があったようななかったような…。


これ懐かしいですよね。
ゴミシューターですよ、きっと。


教室のなかでコの字に組まれた机たち。
9人だけのクラスに教室は広すぎるのです。

寄り添うように学ぶ生徒たちの姿を想像すると
愛おしくもあり、うらやましくもあり。

もしかしてこんな規模での学習が
教育環境としては理想的なんじゃないかな。
そんなことが頭をよぎりましたね。

おもいやりとかおだやかさとかを
おいてきぼりにしながら
しゃにむにマス教育に走ってしまった時代に
こんな美風がすっかり
すみっこに追いやられてしまったのかもしれません。




「理科室」に思い入れがが強いのはなぜでしょうか。

はじめて化学反応という
マジックに出会った教室だからでしょうか。


こどもたちの歓声が大好きな
フェアリーたちが
羽を休めてるゾ!


この窓辺から校庭を見おろす視線は
われしらず慈しみにあふれていて…


どれほどの時間だったでしょうか。
校舎をざっと見学しただけでしたが
すんなりととけ込めた懐かしさと親しみ。

この校舎だったらまた机に座って勉強してもいいかな
そんな殊勝な気持ちになっていました。


この校舎をつくるために尽力された
80年前の校長先生のお墓が
国道54号線をはさんで
お向かいのお寺さんにありました。

地域のみんなで協力して建てた愛おしい校舎を
いつまでも見守ってくれているのですね。


動画はこちら


2016年12月12日月曜日

残すことにも夢と愉しさが…

きのう、移動書斎にシロを乗せて、安芸高田市立郷野小学校に行ってきました。

ドリームフィールドに通っていたとき、国道54号線ルートを通ると視界の隅にばしば目に飛び込んできて、「やっぱり、木造の校舎はいいですね」なんて、懐古趣味とともに眺めていたものの、現物をじっくり見学したのは初体験。

なんでいまさら、というなかれ。
先日、知人から「廃校となって、いずれ解体されるかも」と耳にしたからです。


木造の、それはたいそう魅力的な校舎。
築後80年あまりの古い建物ですが、まだ現役バリバリできれいに使われていました。

ちょっと調べてみると、現役、再活用、放置プレイと、様態はさまざまですが木造校舎は広島県内だけでもかなり現存しているらしいのですが、写真で見るかぎりこの郷野小学校のスケールは別格。
建築のために奔走したという当時の住民の意気込みと熱意、こどもたちにたいする愛情がひしひしと伝わってきます。

これは、安易に解体してはいかんでしょう。
後世に残さなければ。



どうです、この威容と愛らしさが同居した
魅力的な建物は。

ノスタルジックというか
ぼくらにとっては原風景といってもいい景色。

聞けば、若者たちにも人気らしい。

すぐそこにあったのに
するりと逃げられてしまった初恋のひと。
そんな切なさのようなものが
胸に迫るからでしょうか。

ここの校庭は総天然芝。
元ドリームフィールド管理人としては
そこにもそそられました。


木造、もくぞう、モクゾウ…。
これをなんとか残せないものか?

またまた、夢がふくらみはじめました。


これは校庭の隅にあった定番の二宮尊徳像。

「ほかに代え難い宝物は
ソントクではかるものではない。
なんとか存続させるのだ」

そう聞こえたのは幻聴だったのでしょうか。(笑


この朝礼台から
卒業生たちがつぎつぎに保存を訴えているようでもあり…


動画はこちらから


ちなみに下の写真集の表紙になっているのがこの郷野小学校です

2016年12月11日日曜日

野球場づくりで知った車中泊の愉しみ

きょうはドリームフィールドで活躍してくれた車たちを紹介しましょう。

ドリームフィールドへの往復の脚になってのは、はじめは義父から譲り受けたシビックのエアロデッキでした。
たまに実父のファミリアのステーションワゴンを借りて荷物を運んだり、ファーザーたちのお世話になりっぱなしでしたね。

しばらくしてエアロデッキは廃車にしたので、ずっとファミリアが主な移動手段になってました。

そのうち石彫家の知人が、彼の知人の軽のワンボックスを譲ってくれて、ここからワンボックスが活躍することになります。

下がそのドリーム1号。

もともとは地味なクリーム色だったのですが、近くのペンキ職人のおじさんに道具を借りてボディを塗り替えました。

色はもちろんドリームフィールドカラーのグリーンです。
そして仕上がったのが下の写真。

アマガエルみたいでしょ。


さすがに気恥ずかしさが先に立ちましたが、今さらお返しするわけにもいかず、覚悟を決めて乗りまわしてみることにしました。

しかしナレとは恐ろしいモノで、そのうち恥ずかしさなんて吹っ飛んでしまって、とにかくその便利さにぞっこん惚れこんでしまいました。


何と言ってもこれですから。

スタンディングのままで荷物の出し入れができて
ラクラクなのです。

乗用車では、こうはいかない。
このフラットなスーペースは何にも替えがたいものでした。

ちなみに積んでいるのはバーベキューテーブルです。


ただ排気量が小さくて馬力がないのが難でした。

これで一度、京都から東京への旅に出たのですが
京都から大津の峠を越えられずに断念。

「ビー、ビー」のエンジン音がしだいにか細くなっていって
エンストしてしまった時には
頭が真っ白になってしまいました。

それで車検が切れるのをシオに
他のワゴン車に乗り換えることに。
もう普通車は選択肢にはありませんでしたね。

それである車検工場で探してもらったのが下の車。
ドリーム2号です。

これも同じ軽で馬力はイマイチ。
スピードを出すとエンジンがすぐ喘ぐんで
高速は走れませんでした。

それでも峠越えくらいはできて
車内を改造して寝泊まりできるようにしたので
広島から仙台のフルキャストスタジアムまで
観戦に行ったこともありました。

この車からわが車中泊人生が始まったのですね。

ゆったり横になれるし荷物も積める。
これで野球場づくりがさらに愉しく遊べるように。

結局、2006年の最後のシーズンまで
このドリーム2号が活躍してくれました。


ドリームフィールドの遊びをやめてからも
このタイプの便利さと面白さが身にしみてしまって
ずっとワンボックス車を愛用しています。

そして今乗っているのが下のボンゴ。

これを移動書斎兼カプセルホテルと称して
旅行に取材にと楽しんでいるという次第。

2016年12月9日金曜日

ケビンへの手紙

現地の造成がすんで、いよいよぼくたちのグラウンド作業がはじまりました。

まず、することといえば、石拾いですね。
これが野球場づくりの定番、初歩の初歩。

ゲームにたとえれば、試合開始前のウォーミングアップみたいなものです。

幸いグラウンドには、ひと抱えもある岩からツブテまで、ありとあらゆる石が無尽蔵に転がってましたから作業のネタに困ることはありまんでした。(笑

拾っても拾っても尽きせぬ石ころたち。
気が遠くなるような時間のなかで、それでも確実にことは進んで行く。

不思議な充足感がそこにはありました。


でも、しんどい作業だけではへこたれてしまいます。

なによりも、自由に使える野球場と同じ広さのスペースを目の前にして
指をくわえているはずもなく
自然にグラブとボールを持って
白球と戯れはじめました。

まだ石ころが埋まってデコボコのグラウンド。
ボールはあっちに転がりこっちに弾んでと
収拾はつきません。

つい先日鬼籍に入った平尾誠二氏が
楕円のラグビーボールを評していっていましたが
そのボールの奔放、無軌道ぶりが
「自由」を感じさてくれたと。

ぼくたちも、あのとき遊んだグラウンドで
「自由」という感覚を満喫していたかもしれません。


映画「フィールド・オブ・ドリームス」に影響されて
野球場をつくりはじめたぼくたちは
今度は自分たちの物語りをつくることになりました。

「野球場をつくる」
この冒険ともいえる目的を成しとげるためです。

ケビン・コスナーに書いた手紙も
そんなエピソードのひとつでした。




2016年12月8日木曜日

フィクションのもつ強さ

あっちに行ったり、こっちに来たりのイレギュラー。
話は前後します。

ここ最近はドリームフィールドの動画をYouTubeでアップしてたりしているせいでしょう、「あなたにおすすめ」の動画に、なんと本家の「フィールド・オブ・ドリームス」関係のタイトルが表示されました。

「Kevin Costner "Field of Dreams" 25 years later」

この動画です。


さっそくクリックしてみました。

映画「フィールド・オブ・ドリームス」の舞台となったアイオワの野球場を、25年後に主役のケビンコスナーが訪れてのもの。

なにがびっくりしたかといって、あの野球場がまだ残されてあったこと。
しかも、以前よりもきれいに整備されているのには驚かされました。

野球場は生き物ですから、そのときどきで表情を変える。
たぶんこのセレモニーのために念入りに手入れしたのでしょうが、それにしてもです。

ぼくたちのドリームフィールドが完成したのが1995年。
その翌年には、このフィールド・オブ・ドリームス球場から映画に出演した選手たちが中心になってつくった「ゴースト・プレイヤーズ」が来場しました。

「お前がつくれば、彼らはやって来る」

そのビッグなゲストでした。















機内のビールをすべて飲みつくして、彼らはやって来た(笑



そのゴースト・プレイヤーズの面々がドリームフィールドを目にして、口々にいったことばはいまも鮮明に憶えています。

「グッド・ジョブ!」

日頃、「英語では気持ちが伝わらない」なんて訳知り顔にいっているぼくですが、あのときはハート・ツー・ハートで、熱いものがストレートでこころのミットにおさまったようで感極まってしまいました。

「グッド・ジョブ!」につづけて彼らいったこと。

「フィールド・オブ・ドリームスは映画だが、お前たちは本当にやった。すごいことだ」

                     ❇

その現実のドリームフィールドはいまはなく、映画のフィールド・オブ・ドリームス球場はいまだに健在で現存している。

その事実に、複雑な想いがしました。

ドリームフィールドは現実の野球場だったがために、現実の要求にあらがいきれずに圧し潰されてしまった。

向こうのフィールド・オブ・ドリームス球場は、フィクションのなかに夢のダイヤモンドのようにあるからこそ、いつまでもありつづけられる。

ぼんやりと、そんなことを考えました。

そして関連のクリップをつぎつぎに見つづけながら、後悔とも無力感ともつかない複雑な感情が脳裏をよぎっていました。



2016年12月7日水曜日

残土に埋もれた農地の記憶


「トラックが土運んでますよ。知ってました?」
出張帰りに高速道路から目撃したプリンは、興奮気味の声を携帯電話から送ってよこした。

「大型トラックがピストン輸送で残土を運んでますよ」
「ほんまか?」
興奮が伝染したノボルも声を張りあげた。

「順番を待ってるトラックが高架まで何台も並んで待機してます。ブルドーザーも入ってて、もう段々畑は跡形もなくなってますね」
プリンの声は熱っぽくうわずっていた。

その連絡が入ったつぎの日曜日が、とうもろこしの会の2シーズン目の作業日になった。
… 

                (「わしらのフィールド・オブ・ドリームス」より)


グラウンドエイドが終わってからは
現地ですることもなく
年を越してもしばらくは
なすべきことも思い浮かばないまま
無為に時間が過ぎていくばかりでした。

その“冬眠”を破ったのが
前記の1本の携帯電話。
たしか3月に入ってすぐのころでした。


すぐに現場に飛んで行ってみると
あたりの景観は一変していました。

そこにはだだっ広い平地があるだけ。
農地だった痕跡はまったく消え失せていたのです。

その様子を目にしたとき
メンバーのだれからともなく
「これで、ぼくたちの責任は大きくなりましたね」
そんなことばが漏れていました。

このとき、ぼくたちの思いつきだった「遊び」が
本気で遊ばなければならないプロジェクトとなったのでした。



上の写真が現地の空撮です。
すでに完成間近のころのものですが
造成後の全貌がよくわかると思います。

写真上がホームで、手前がセンターです。
そのすこし右手に「シューレス・ジョーの橋」が見えますね。
外周を緑に彩っているのは
外野フェンスにしたトウモロコシ畑です。

造成がすむのを待つ間
会のメンバーでグラウンドのレイアウトをどうするか
いろいろ検討した結果
計画では写真左手のライトの側に
ホームを設ける予定だったのです。

ところが造成がすんでみたら
すでにバックネットとなる壁までつくられていた。

でもそれが結果オーライでした。
もしぼくたちの計画のようにレイアウトしていたら
マウンドの上にかかる太陽が目に入って
ゲームにならなかったでしょう。

町の専門家が造成の際の図面を描いてくれたようですが
大いに助かりました。

まずは最初のボタンをかけちがうことなく
野球場づくりはスタートできたわけです。

2016年12月6日火曜日

大地との対話




グラウンドエイドのイベントでは
刈り取った草を集めて聖火としました。

もちろんそれはただの「火遊び」ではなくて
思いがあってやったこと。

すでに使われなくなってひさしくなってはいましたが
その田畑から得たものを
浄火でお焚きあげすることで
その土地の地霊への鎮魂としたのです。

そして感謝の祈りでもありました。

「これからここで野球場をつくって
遊ばせていただきます」

そのあいさつの意味もあってのこと。


ここは全面が天然の芝と雑草の野球場でしたから
毎年、あらたな芽吹きがあり草が生長してきます。

それを野放しにしておくわけにはいかないので
芝刈り機で刈りそろえ
カートを動員して除草したりと
毎日のように作業に追われていました。


野球場には完成というものはないんですね。

「雑草とどのように付き合えるのか?」

大地からの大いなる問いと
こちらからの稚拙な回答との
連続だったように思います。

当時は「闘い」と感じていたものですが
いまふりかえってみれば
それは自然との「対話」でもあったのですね。

リアルタイムでは見えなかった真実というのでしょう
ふりかえってみてはじめて理解した感覚です。

もうすこしその対話を楽しめる余裕があればと
いまではすこし残念に思っています。








2016年12月5日月曜日

15人の“浮かれた”ひとびと


昨日の投稿でアップするのを忘れてました。
上の写真でグラウンドエイドのステージに並んでいるのが野球場づくりを一緒にはじめたメンバーです。

ちなみに、このステージも手づくり。
ビールのケースを並べて土台にしたのですが、下が元畑ですから軟弱でふわふわ。
演奏したバンドはさぞややり難かったことでしょう。

動くたびにゆっさゆっさ揺れて…、その浮遊感はあのときのメンバーの心境そのものでもあったのですが。(笑

お揃いのTシャツ(中にはへそ曲がりもいますが)の胸にあしらってあるのはトウモロコシのイラストとロゴ。
そうです、会の名称は「とうもろこしの会」としました。

映画「フィールド・オブ・ドリームス」で主人公が野球場にしたのが自分のトウモロコシ畑。それにちなんでのネーミングです。
勇ましくもなく気張ってもいない、なんともいえない脱力感が会の性格をあらわしているようでお気に入りでした。

どんなメンバーが集まっていたかというと、おかしな連中です。

後日、ドリームフィールドができるまでのノンフィクション「わしらのフィールド・オブ・ドリームス」を書くことになるのですが、「登場人物がおかしすぎてリアリティがない」なんていう苦言を呈されたほど異色のキャラがそろってました。

そんな連中が夢に浮かされたように大地と戯れていたのですから、リアリティが欠如して見えたのもしかたがないことかもしれせん。

職種はコピーライターにデザイナー、広告制作会社社長もいれば、ゼネコンの社員や保険の営業、そしてアパレル関係に勤めるマッチョに画材屋さんと、多種多彩。
このイベント当日に入会した一級建築士もいたりで、当初は15人くらいのメンバーではじめました。

それからも随時メンバーは増えていきましたが、それぞれの職種やキャラクターが見事にはまって、また特殊な技能が発揮されて野球場ができあがっていくのですね。

イベントのチケット売りやスポンサー集めは顔の広い保険屋さん、グラウンドの測量は一級建築士とか。
広告制作会社の社長なんかは、へたな歌でメンバーを励ましてくれたり、と。


「七人の侍」ではありませんが、必要なときには適任者があらわれる、そんなことを実感しました。

コトが成って行くダイナミズムとでもいうんでしょうか、夢を実現するまでのストーリーをきちんと描ければ、現実がそのようになってきてくれるという…。












2016年12月4日日曜日

夢に向かって離塁する勇気


野球場をつくってみよう。

そう決めたとき、最終的に予算がいくらいるのかは算出してはいませんでした。
概算だけでも出してみようとはしたのですが、途中で諦めました。

野球場を手づくりしたという前例を知りませんでしたから、計算のしようがなかったのです。

でも、それが幸いしたともいえるでしょう。

もしサンプルになるような例があったら、夢をその金銭に換算してしまって簡単に諦めていたでしょうから。
行く手に請求書がぶら下がったハードルがいくつも見えたら、だれだって尻込みしてしまいますよね。

ゴールがよく見えなかったからこそ、闇雲にスタートをきることができたのです。

いくらかかるかはわからなかったものの、おこづかい程度の資金では間に合わないことは
さすがに理解していました。
そこで資金集めのイベントをしようということになりました。

それが「グラウンドエイド」で、その8年前に開催されたアフリカ難民救済のチャリティーコンサート「ライブエイド」のパクリ。
僕たちの球場づくりの窮状を救ってください、がコンセプトというわけです。

アマチュアバンドのライブで寄付金をお願い、という虫のいいイベントでしたが、予想以上に反響があって驚きました。

 想いに共鳴した。
 同じ夢を共有したい。

そんな人々が多数集まってくれたのです。

いまさらですが、ぼくたちの野球場づくりという遊びは、最初から最後まで多くのひとびとの想い支えられていたのですね。

あのときのタイトル「俺達のフィールド オブ ドリームス」は「みんなのフィールド オブ ドリームス」にすべきでした。


この日までに刈った草の山で作った「聖火」に点火して
イベントがスタート


地元の青年たちのバンドも
いくつか演奏してくれました



ステージの向こうに
それぞれが夢を見ていたのでしょう
一般的なライブとはちがう
不思議な空気感が漂っていました


せこい花火でしたが
夢のはじまりをことほいで…


イベントの翌日
宴のあとの片付けを終えての記念撮影

「もう夢しか目に入らないぜ!」

2016年12月3日土曜日

ファックスで届いた“天からの声”

「野球場づくりの愉しみ」

第5回にして、ようやく造成前の現地の全貌が明らかに。(笑

下の写真がドリームフィールドになった場所です。

向かって左手から畑と田んぼが段々にさがっていくような土地で
ずっと休耕状態だったので荒れ地のようになってました。

このままだったら、とても野球場にはなりませんし、ここでやってみようとは考えもつかなかったでしょうね。

「工事で出る残土で埋めて造成する」
という条件だったので下見に行って検討してみることにしたのです。

奥には中国自動車道が走ってますし、民家が隣接している。
なによりも、この荒れようでしたから、はじめは躊躇しました。

でも「野球場にする土地を選ぶ」なんていう経験をしたことはありませんでしたから
条件をくらべる対象がないのですね。

だったらこれも何かの縁だろう、ということでお借りすることに決めました。
1993年の初夏のことでした。


たしか、この下見の10日ほど前だったと思います。
新聞織り込みのツールの制作を依頼されて、打ち合わせに近くの島根県の町に行ったのですね。
そのクライアントは、過疎地の土地を安く入手してそこにキットのハウスを建てて、それを分譲別荘として売るというビジネスをはじめていたのです。

塩漬けになっていた土地に価値を付加して地主に還元する。
都市生活者に安い別荘を提供する。
別荘地にコミュニティができて、ひとが出入りすることで町が活性化する。

いわゆる“三方一両得”のビジネスというやつです。

そのクライアントとの打ち合わせのなかで、「過疎地に土地はあまっている」というのを実感したのですね。
それでその帰りに知人のアトリエに寄って相談してみたのです。

「どこかに野球場にできるような土地はないですかね?」と。

するとその知人はこともなく
つまり「なにをバカ気たこといってんの」というリアクションではなく
「どこかにあるんじゃないですかね」
そういって探してくれたのです。

そして、一週間ほどして土地の概要を記したファックスが彼から送られて来ました。

「天よりの声、ファックスにて届く」です。(笑

                     ❇

野球場をつくる、ということは一般的なことではないので、土地の手配とか段取りとか馴染みがありませし想像もつきません。

それで「そんな土地はないでしょ」とか、「そんなもんできっこないっすよ」と、みずからブレーキをかけてしまう。

まあ、安易にやるようなことではないけれど、夢を持っているのならば簡単に諦めてしまうのはもったいない。

「叩けよ、さらば開かれん」

です。


野球場をつくることにはなった

でも土が入って造成がすむまではなにをしていいのかもわからず
とりあえず草刈りをして
野球場にする前に一度きれいにしてみようということになりました

上の写真はその初日のスナップです
これから「おバカな遊び」をはじめるという
すべりまくりの高揚感
得体の知れないハシャギっぷりが
よくあらわれている写真です(笑


はっきりいって
草を刈ってきれいにしても
いずれは残土に埋もれてしまうのです

無為の作業とはわかっているのですが
それでもその行為自体が
何かを生み出す「祈り」になると思えたからでしょうか
意外に頑張れましたね


雑草を刈りはじめてみると
化け物のような蜘蛛がツーとあらわれたり
巨大なカエルが飛び出してきたりと
さまざまな魔物があらわれて
ちいさな冒険物語りにふさわしい
スタートとなりました


上の写真の奥に写っているのは
テレビ局のカメラクルーです

「野球場づくりを宣言」して
人的経済的な支援の輪を広げたいということで
取材してもらいました

はじめは軽い気持ちでメディアに応援を仰いだのですが
しだいに大変な事態に発展していくことになります
それはまた後日


作業が終わってのバーベキュー

というよりこのころは
バーベキューをしに集まって
ついでに草刈りをしていた
そんな感じでしたね


こんな草刈りを何度かして
用地はだいぶんきれいに整備されました

こうして見ると
簡単にできたみたいですが
土に埋もれていた網を引き上げたり
電柱を片付けたり
かなりハードな肉体労働のあとの結果です


そしてこの整備された土地で
ぼくたちは野球場づくりのための
あるイベントを開催することになります