2016年11月30日水曜日

夢のような物語りが現実になるとき

毎年7月20日の津田恒美の命日にはドリームフィールドで「津田恒美メモリアルゲーム」をしていたのは、前回の投稿で紹介しました。

そして20世紀最後の締めくくり、2000年にはカープOBチームが来場してメモリアルゲームをすることができました。

「お前がつくれば、彼はやって来る」

映画「フィールド・オブ・ドリームス」で、農夫が野球場を作るモチベーションとなったこのフレーズが、ぼくたちの野球場づくりの動機でもあったわけですが、その「彼ら」がやって来たのです。



これは「シューレス・ジョーの橋」。
映画「フィールド・オブ・ドリームス」で
あの世からあらわれたメジャーリーグの名選手に
敬意を表してのネーミングです。

センターの奥から山稜の向こうのへと
結ぶように架けたもの。
この橋を渡って「彼らはやって来る」ということで。

つまりはドリームフィールドと夢の世界とをつなぐ架け橋という見立ててです。
カープOBの面々も
もちろんここを渡ってやって来ました。


当時OB会長でチームの監督でもあった
長谷川良平さんのあいさつ。
「あんたら面白いことしとるよの」
たしかそんなお褒めのことば?(笑
をいただいたと記憶してます。

ということでゲーム開始です。
この日は安仁屋宗八さんもマウンドに。
津田恒美を偲ぶゲームにはもっともふさわしい。
安仁屋さんと津田との
こころ温まる師弟関係は
ここで紹介するまでもないでしょう。

写真は小川達明さん。
崇徳高校時代に山﨑隆造さんとともに
春の選抜大会を制覇したときのクリンナップでしたね。
カープでも一時主軸を打っていた彼が投げ
バックでかつてのエース高橋里志さんが守る。
OBチームならでは光景です。

ゲームが終わっての懇親会。
グラウンドの一角につくったバーベキューコーナーです。
そうか、「野球場でバーベキュー」も
カープより早かったんですね。(笑

こちら求めに応じてサインをする高橋里志さんです。
カープ黄金時代の停滞期に
奮闘しての20勝は見事でした。


この日のためにハウスに併設したシャワールーム。
これも手づくりで用意したのですが
OBたちには、お気に召さなかったらしく
だれも使ってくれませんでした。(笑


なにはともあれ、ぼくたちがつくった野球場
ドリームフィールドにカープのOBたちがやって来てくれた。

「お前がつくれば、彼はやってくる」

映画「フィールド・オブ・ドリームス」のなかで
再三語られていたこのフレーズを実感した日でもありました。

農夫の耳に天から聞こえてきたこのフレーズは
もちろん野球場をつくってしまうという
物語りに託しての映画の主題でありメッセージ。

「あなたがコトを起こせば、ひとは集まって来る」
そして
その想いは、きっと成就する。

そのことを語っていたのです。

















2016年11月29日火曜日

顕彰は“冗談”とともにやってくる

「冗談だと思った」

新井貴浩選手がセ・リーグのMVPを受賞しての気持ちを語っていましたが、あれはいつわらざる心境だったことでしょう。

驚天動地、晴天の霹靂とまではいわないまでも、鳩が豆鉄砲くらったほどには、みなさんも驚かれたようですが、なおさら本人は期待も予想もしていなかったことでしょうから。

このテのことがあると、いつも微笑とともに思い出してしまうのが、カープの初代エースだった長谷川良平氏が2001年に野球殿堂入したときのこと。

もはや殿堂入りはないと諦めて久しかった長谷川さんは吉報の報せを、「いたずら電話かと思った」と語っていました。

その表現が面白く、今回のようなことが起きると引っ張り出しては味わってみるのが癖になっているのです。

あのときの長谷川さんのことばと、今回の新井選手の表現が似ているのは、まさかカープの伝統というわけでもないのでしょうが、なんとなく得心したような気持ちになってしまいました。

パ・リーグの大谷翔平選手の受賞については、異論をはさむ向きはなかったでしょうが、セ・リーグの新井選手に関しては賛否さまざま意見があるようです。

活躍からいえば菊池涼介選手か鈴木誠也選手だろうとか、投手部門のトップを争ったジョンソンや野村祐輔がいたではないか、と。

あるいは優勝チームから出すという慣例にしばられることはない。
ベイスターズの筒香嘉智選手だ、いやスワローズの山田哲人選手だろう、といった声も聞こえてきます。

ぼくは下馬評高かった菊池選手で決まりだろう、そう思っていました。
ほぼシーズン通して活躍しての最多安打。なによりも、再三チームを救ったあの桁違いの守備力はいくら評価してもしたりないほどです。

なので彼が次点になったこともさることながら、新井選手の781点に対して429点と意外な大差だったのにも驚かされました。

菊池選手にくらべると、新井選手の貢献度はすこし物足りない。

一塁をスペア(といっては失礼か)の松山竜平選手やエルドレッド選手に譲りながらの虫喰い出場。タイトルひとつ獲ったわけでもなく、説得力はいまいちです。

しかし一晩明けてのいま、授賞式の報道に接しての気持ちをいえば、落ち着くところに落ち着いたのかな、という印象です。

NPBアワードでの表彰式の様子をみても、賞の大きさに見劣りするようなところもありませんでしたし、それなりにおさまりがよかった。
それはやはり、彼が今シーズに見せた存在感によるものでしょう。

シーズンの成績やグラウンドでの表面的な活躍でははかれない貢献度。それを現場の記者たちが評価しての投票結果ということだったのでしょう。

ぼくの大好きな「タラレバ」になりますが、もし菊池選手が受賞したとして、そのときは逆に「なんで新井選手ではないのか」という不満はどうしても残ったでしょうし、ほかのどの選手にも大谷選手のような圧倒的な説得力はなかったということです。

他チームの筒香選手や山田選手にしても、やはり「優勝していない」というハンデをくつがえすだけの成績ではなかった。
たとえば三冠王でも獲っていれば、文句なしだったでしょうから。

ボブ・ディランのノーベル文学賞じゃありませんが、首位打者や最多本塁打、最多勝や最優秀防御率などのように数値で決めるものでない以上、こんな不満や戸惑いはいつも残ってしまうものなのでしょう。


長谷川良平氏(写真左)の殿堂入りのお祝い広告を企画したときのもの
「悪い冗談かと思った」の苦笑いだったのかも(笑


2016年11月28日月曜日

グラウンドは刻々と表情を変えている。


前回からはじまった「DREAM FIELD 野球場づくりの愉しみ」(仮題)。

まずはそのドリームフィールドと名付けた野球場(その理由はいずれまた)がどんなものだったのか、ざっと紹介しておきましょう。

写真は2003年のものです。

なんてことはありません、ぼくたちはカープがズムスタを本拠地にした2009年より前から、内外野天然芝の野球場で遊んでいたのですね。

ようやくプロ野球が草野球の感性に追いついて来たということで、まずはめでたしめでしたしといったところでしょうか。(笑

あのころは「ダイヤモンドが天然芝であることの意味」をよく理解していたファンはすくなかったと思います。
実際にプレイしてみればわかりますが、愉しさがまったくちがいます。異次元もの。

「緑の芝のうえを白球が転がってくる!」

あるいは

「おれの打球が緑の絨毯を走って野手の間を抜けていく!」

こんな興奮とともに野球ができる贅沢というんでしょうか。

そんなナイスな野球場を本拠地にしているからカープは優勝できた。
そういっても過言ではありません。

野球を愉しみながら、カープは強くなってきたのでしょう。

それはさておき、なぜここで写真の年をことわっておくかというと、野球場の表情がそのシーズンによってちがってくるからです。

天然芝の野球場は芝の状態で青みがちがって見えます。
生き生きとしていれば見栄えはいいし、芝に元気がなければ冴えない感じにもなる。

また、どのように芝を刈りそろえるかでさまざまな模様があらわれます。
まっすぐにスジ状になっていたり、チェック模様に刈り込んでみたり、同じ球場でありながら、まるで洋服でも着替えるようにダイヤモンドの柄が変わっていたりするのを、あなたも気づいたことがあるでしょう。

無機的な人工芝の球場にしても、時間とともに芝が傷んでいって見苦しくなったりします。
藤井寺球場の最後のころは、芝がすり切れて下のコンクリートが透けて見えそうで、憐れをかこってましたから。

それでも一般の野球場の場合は日常的に「芝生を管理」しているので、極端に景観が変わって見えるようなことはありません。

いっぽう、わがドリームフィールドはといえば、週末だけメンバーが集まって「雑草と格闘」するような作業だったのでシーズンどころか、その日によってまったく見た目がちがっていたりしました。

ゲームがある日はなんとか刈りそろえていたものの、それでもどこまでできたかで印象はちがってきて、大げさでもなんでもなく、日によってまったく別の野球場になってしまってました。

たとえば、こんな感じ。


前の写真の2か月後です。

芝にまじって雑草がいばっていて、とても野球をするグラウンドではありませんね。

それでも刈りそろえると、こうなります。


どうです、すこしはマシになったでしょ。
数十分の時間差です。(笑

ふだん何気なく「おお、きれいじゃん」なんて眺めている野球場も、管理スタッフのみなさんのおかげで見栄えよく、またプレイしやすく手入れされているのですよ。

ドリームフィールドが一般の野球場と決定的にちがっていたのは、段々状に広がっていた畑や田んぼを平に造成してもらって、そこに砂を入れてならし、芝生の種を蒔いて育てながら作り、手入れしていったので、そのプロセスで有り様がかなりちがっていたことです。

芝生がだいたい生えそろったのは、種を蒔いて3年目の1997年あたりだったと記憶しています。

それからしばらくは、刈っても刈ってもすぐに伸びてきて、刈った芝がバックネット下とかスタンドの横とかに、うずたかく積もってしまって処理に困るほどでした。
人間でいえば少年期から青年期になったころの頭髪、そんな感じでした。

                    ❉

ところで、冒頭の写真のグラウンドを自己評価すれば70点といったところでしょうか。(そのうち100点にちかい写真をドヤ顔でお見せいたします)

外野とファウルゾーンはなんとか刈りそろえてますが、ダイヤモンドは縁周部だけ。全体に手がまわっていません。(それは、ある理由があってのことでした)

ドリームフィールドの広さは両翼が約93メートル。中堅が115メートルで、当時広島東洋カープが使用していた旧広島市民球場とほぼ同じ広さでした。

これを素人が集まって手作業で維持管理していたのですから、手がまわりきったと思えたことは記憶にありません。

ここで“大変自慢”をしても仕方がありませんが、それもまた愉しからずや、です。
たとえば下の動画のように、ゴーカートで遊んでいるかのような気分で草刈りをしてみたり…。


この動画で映画「フィールド・オブ・ドリームス」(W.P.キンセラの「シューレス・ジョー」が原作)のあるシーンを思い出されたひともいることでしょう。

 

なかで、ぼくもコメントしてますが、ケビン・コスナー扮する主人公の農夫がトウモロコシ畑をつぶして野球場にするためにトラクターに乗ってトウモロコシを倒していくシーン…。

あれを見た瞬間、「ぼくも野球場を作ろう!」そう決心していたのです。
そういう意味では罪なシーンでした。(笑

ちなみに今回掲載した写真のダイヤモンドのなかほど、マウンドの前に白線で文字が見えると思います。
あるファベットで「TUDA」と書いてあります。

そして写真右下の撮影日は「2003 7 20」となっています。

そうです。
元カープのストッパーだった故津田恒美氏の命日のときの写真だったんですね。

そして、ぼくたちはいまから「津田恒美メモリアルゲーム」をはじめようとしていた。
そのときのスナップです。

なのでダイヤモンドに「TUDA」とあしらうための時間がとられて、芝刈りがおろそかになってしまったのでした。(それにしても「つ」をいつから「TSU」とローマ字表記するようになったんですかね)

この津田恒美メモリアルゲーム。
ドリームフィールドが開場した1995年の翌年、1996年からはじめたはずです。

「野球場ができたら、きっと津田の霊がやって来ていっしょにゲームができるんだ!」

フィールド・オブ・ドリームスでは、農夫の野球場に、かつての名選手シューレス・ジョーがやって来て彼の野球場を喜んでくれた。
ぼくらのドリームフィールドでは、それが津田恒美だったのです。

 あのころは命日の「海の日」が固定の祝日で、かならず休みだったのでちょうどよかったのですね。

「津田恒美を偲んで、記念のゲームをしよう!」

思いついたらすぐに実行できる。
これが自分たちの野球場を持っていることの強み。
なんといっても場所の確保をする心配がいらないのですから。

なんでもそうですが、会場となる場所を探して確保するのは大変なこと。
イベントどころか、ちょっと練習するための球場を手当するのもままならないというチームや野球部もあるようで、皆々様の気持ちお察しいたします。

もしなんなら、自分たちで野球場つくってみてはいかがでしょうか。

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ちなみに、この年の津田恒美メモリルゲームは、わがコーンズと写真に映っているアクティブJというチームで2試合していましたね。

結果は1勝1敗の痛み分けでした。














2016年11月27日日曜日

毎日が「宴のあと」だった日々


結構こんなひとは多いんでしょうね。

写真のデータや書きかけの原稿やメモなんかをパソコンに投げ入れたままにしているひと。
そのつど整理しておいたほうがいいですよ、ぼくがいうのもなんですが。

だいたいが整理下手、ものぐさな性格なのでかなりのデータがディスクに乱雑に溜まったままになっていたのですが、パソコンの容量のこともあったりで、ようやく整理をする気になったはいいものの、いま往生こいてます。

そのときどきにしておけばこんなことはならなかったのでしょうが、なにがどこにあるのかわからないまま念のためにコピーして保存したり移動してしまって、重複したデータが乱雑に溜まってしまっていたのです。

それで確認と削除と移動と整理とかなんやかやの時間と手間とで謀殺されるはめになってしまいました。

気が遠くなるというか、死ぬまでにはたしてこのパソコンのなかのデータの整理がつくのかと、心細い思いにすら襲われています。

たしか安部公房氏が亡くなったとき、ワープロのフロッピーディスクのなかに書きかけの原稿がかなり保存されていたとかで話題になりました。

ちょっと調べてみたら、彼の没年は1993年のことだったのですね。
ちょうどぼくが、仲間を集めて「野球場をつくろうぜ!」なんて、人生をすべりはじめたころだったのです。

安部公房氏のディスクにデータが蓄積することがなくなったとき、かわりにぼくのパソコンには手づくのの野球場「ドリームフィールド」での作業と遊びの記録とが溜まりはじめていたということになります。

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なんだか「整理の時間」ばかりになってしまっているのがシャクなので、そのつど備忘録もかねてここにいろいろアップしていってみようかと思いたちました。

自分の労苦に報いてやりたい、という柔な発想です。(笑

とりあえずはドリームフィールドでの遊びや作業やスナップなどなどが、時系列も忖度されないまま並んでいくことになると思います。

まあ、なんのたしにもなりはしませんが、一般的な生活とはちょっとちがう感覚の時間が流れていたり、すこし日常とはちがう空気感は味わってもらえるのではないかと思います。

ちなみに前掲の写真は、2004年6月30日にグラウンドを見おろすハウスから眺めた夕日です。

はじめは通いでグラウンドづくりの作業をしていましたが、いつからかぼくはひとり現地で寝泊まりするようになって、こんな景色をいつも目にしていたのですね。

美しい景観のなかに、そこはかとない「孤独」が見えるのは、そのときのぼくの心境が映り込んでいたからでしょう。

愉しい遊びのなかにも、というか愉しかったからこそずっと感じていた孤独。毎日が「宴のあと」のようだったからでしょう。

いま当時の写真を整理していると、ふっと浮かんでくる感慨です。

2016年11月25日金曜日

キャッチボールの1球が開いてみせた新天地への扉


さきのドラフト会議でプロ野球の某球団から上位指名され、新天地に身を投じようとしている社会人野球の青年の調整ぶりを見学させてもらう機会を得ました。

すでに、プロでものになった選手ではなく、いつまでもなれない素材ともちがう。
ある才能と運とを秘めた存在が、いままさに新世界にジャンプアップしようとしている瞬間に立ち会っている感覚は、とても新鮮で刺激的でした。

とくに執筆のための取材ということでもなく、ひとりの野球ファン、かつて草野球を遊んでいた野球好きとして体験できた愉快な時間でもありました。

大学から社会人へと進む投手とふたり。

陸上競技場のサーキットで軽くアップしたのち、かなりハードなダッシュを何本かしてから、近くの公園に場所を変えました。

そしてふたりの投手が軽いキャッチボールをはじめたそのとき、それまでの物見遊山な気分はぶっとんで、背中を戦慄が走っていました。

彼が軽く投げた球に、信じられないパワーを見て取ってしまったからです。
それまで、ただただ眺めているつもりだった観察眼が、突然に旺盛な好奇心に変わってしまいました。

モーションを起こすことなく、肘と手首のスナップだけで投げる彼のボールが、その動きとはまったく相関関係がないかのごとく、想像を絶する勢いで相手のグラプ収まったのです。

「世界のバランスが、彼のまわりだけゆがんでしまったのか?」

そんな感覚、といったらいいでしょうか。

これまでのぼくの常識では測れないことが、目の前で起こったのです。
彼が投げる凄まじいボール(キャッチボールのです)と、彼の華奢なからだとがまったく結びつかないことの戸惑いと、とてつもない興奮…。


自分たちで野球場をつくって長く草野球を遊んでいたなかで、いろいろなピッチャーを目にしてきました。

プロの指名を蹴った投手。社会人の現役投手。
元プロ野球の投手と対戦したこともありました。

もちろんキャンプ地や球場のマウンドで、プロの投球をグラウンドレベルで目にした経験はいうまでもありません。

しかし、そんな経験や感覚では測れない事態が、目の前で生起していたのです。

いま同じ公園で草野球を遊んでいる若者たち。
そこに混じっても、なんの違和感もなさそうな青年です。

そんな彼がプロ球団から上位指名された理由。
その答えを、有無をいわさず説得させられた思いでした。

野球というスポーツでときおり目撃することになる奇跡のような瞬間。
彼のキャッチボールの1球が、その扉を開けてしまいました。

しばらくは野球を外から見てみたい、なんて甘っちょろいことを考えたりしてました。
ところが彼が投げた何気ないその1球によって、あらためて野球というゲームに取り憑かれてしまったみたいです。








2016年11月24日木曜日

「神ってる」から「かぶってる」へ

「カ舞吼」


これが昨日のファン感謝デーでお披露目された来季のカープのキャッチフレーズだそうです。

やれやれ。

ようやく「真赤激!」の赤面ものの呪いから解放されると喜んでいたところに、またあらに呪いをかけられたような心境です。

このところずっと続いている『頓珍漢キャッチフレーズシリーズ』。
もうテキも後に引けなくなってきているようなので、たぶんまたハズすかスカすのではないかと妙な期待はあったのですが、その期待は見事にハズしませんでしたね。

「そもそも、なんて読むんだよ!」

とお怒りの貴兄、ぼくに振られても困るんです。

なんでも1文字目はカタカナの「カ」。
「カープらしく」のカだそうです。

で、ふた文字目は「カープらしく」舞うの「舞」を当てての「ぶ」。


そして最後が吼えながら戦う気概を示す「吼」。
これを「く」と読ませて「かぶく」だそうです。

「かぶく」
漢字を当てれば「傾く」。歌舞伎の語源ですね。



早い話が、この「かぶく」の当て字ということのようですが、ぱっと見、まず読める方はいないでしょうね。

読めないキャッチフレーズ


これは致命的だと思うのですが、テキも何年前かの「破天荒」から、すっかり開き直ってしまって常軌を逸してしまったのかもしれません。

だいたい「傾く」なんて言葉をチームのスローガンにするのはどうなんでしょうか。
こっちの頭が傾いてしまいそうです。

「かぶく」には、「他の意見を聞かず勝手な振る舞いをする」あるいは「はしゃぐ」という意味もあるようなので、鈴木誠也選手の「神ってる」を借りれば、最近ちょっと「かぶってる」球団ならではの感性でもあるのでしょうか。

                      ❉


キャッチフレーズとしては、正直いただけません。
でも、この発想は面白いと思いました。

カープの選手を歌舞伎役者、あるいは歌舞伎の登場人物に見立てて隈取りしてみるというのはアリです。
これは贔屓の引き倒しかも知れませんが、個性派ぞろいのカープならハマりそうです。

と、ここまで書いてきて、ハタと気がつきました。

これはあくまでも憶測ですが、このキャッチフレーズ、ことばより先にこのアイディアありきだったんじゃないでしょうか。

来年のグッズ商戦をどうするかのミーティングの中で、商品部の若い社員が真赤激に頰を染めて提案したわけです。

「選手たちの似顔絵に隈取りさせて、そのTシャツを売ってみてはどうでしょうか?」

「おお、それは面白そうだ」

「仮名手本忠臣蔵に義経千本桜、きっと絵になりますよ」

「菅原伝授手習鑑はちょっと暗くて悲しすぎるが、暫(しばし)ありゃええで。討ち落とされた首がゴロンゴロン。グラウンドに転がったボールじゃ、ありゃ」

「……?」

「いいっすね、いいっすね。さしずめ団十郎は中崎ですかね、あのギョロ目で「ニラミ」はいけますって」

「義経は誠也で決まりですね。弁慶が新井!」

「ええで、ええで」

「決まりですね総統!」

「じゃ、キャッチフレーズもカブキじゃ。適当に当て字考えて作っとけや」

もしかしてこんなことだったのかもしれません。
そうでもないと、このキャッチフレーズの適当さ安易さが理解できないのです。

だけど、この『歌舞伎Tシャツ』、面白そう。
もしかして、もう出てたらすみません。(

ちなみにまだ商品化されてなくて「それ、いただき」なんてことになったら、ロイヤリティお願いしますね。(笑




2016年11月22日火曜日

佐藤寿人選手へのパスミス

 (サンフレッチェ広島が広島市民球場跡地にイメージしている素晴らしいスタジアムのパース)


広島市内、袋町の路上で彼とはばったりと出くわしたことがありました。

異様に引き締まった上半身と、真っ黒に日焼けした顔。さして大柄ではありませんから、街の雑踏に紛れてしまったとしても何の不思議もなかったでしょうが、オーラの輝きがちがいました。
それがサンフレッチェ広島の佐藤寿人選手であることは、すぐにわかりました。

あれはサンフレがJ1リーグ初制覇した直後のことだったのでしょう、とくにサッカーに関心があるわけでもないぼくが、彼をレジェンドとしてしっかり認識したのですから。

あのころ佐藤寿人選手はもっとも輝いていたはずです。
サンフレッチェ広島は彼を中心にチーム作りがなされ、彼を生かすためのフォーメーションで戦い、彼がゴールを積み上げるたびに強くなっていったようなチームでした。
文字どおり『佐藤寿人のチーム』といっても過言ではなかったでしょう。

まさにチームの顔、レジェンドである彼が、そのサンフレッチェを去ってJ2陥落が決まった名古屋グランパスエイトに移籍することが昨日発表されました。

その一報に接したとき、なんともいえないわびしさとともに脳裏をよぎったのは、負い目といってもいいような不思議な感覚でした。

「もし、広島市民球場跡地にサッカースタジアムができていれば、いや、完成までのロードマップさえできていれば、こんなことにはならなかったのではないか…?」

そんなことを思うと、「自責」と「後悔」と「口惜しさ」の三本の矢を胸にくらったような気がしたのです。

彼はチームの中心選手として、また優れたアスリートとして、ずっと専用スタジアム(複合型もふくめて)の必要性を痛感していたようです。

それでサンフレの初優勝をきっかけに、堰をきったように市内中心部へのスタジアム建設をしきりに訴え、願うようになりました。

もちろんほかの選手たちにしたって、「優勝すればサッカースタジアムを作ってもらえる」という切なる思いが大きなモチベーションとなっていたであろうことは、彼らのそれからの言動を見ていれば明かです。

「広島市内中心部にサッカースタジアムの建設を!」


初優勝が起爆材となって、このムーブメント。

僕はわざわざスタジアムにサンフレのゲームを観に行くような熱心なファンではありません。
だからサポーターが広島市民球場跡地にスタジアムを望んで地道に活動していることを知らなかった。

ただ、跡地をどうするべきなのか、跡地はどうあるべきなのかを追求していったら、「跡地はサッカースタジアムであるべきだ」という結論にいたった。
そしてこれはまた多くの市民の思いでもあったのです。

したがって、当事者のサンフレ側、サポーターからいっても、市民県民のコンセンサスとしても市民球場跡地にサッカースタジアムができることが願いだったし、そうあるべきなのです。

しかし、その願いはいつも不可解な理由でいなされかわされ、姿の見えない勢力によって阻止され覆されてきました。

その、いつまでもつづく“失われた時間”のなかで、つぎつぎにサンフレの主力選手、有望選手はチームを去っていきました。

初優勝から今回の佐藤寿人選手にいたるまで、はたして何人の選手がサンフレを去っていったのでしょうか。

高萩洋二郎、西川周作、石原直樹…。

彼らが移籍することになった動機や理由はさまざまでしょう。
でも、遅々として進まないスタジアム建設に業を煮やして、また落胆して去って行ったわけではないよ、とはたして誰がいい切れるのでしょうか。

いやそれどころか、スタジアムの建設を声高に叫びながら去っていった選手たちが何人いたことか。

ついこの間、ブンデスリーガのクラブに移籍した浅野拓磨選手は、たしかサッカースタジアム建設の気持ちを置き土産にして旅立っていったと記憶しています。

佐藤寿人選手の場合、かりにスタジアムができていれば、あるいは建設が決まっていれば、移籍など考えずにそのままサンフレの選手でありつづけた可能性は高かったでしょう。
なんといっても自ら望んでいた悲願だったわけですから。

広島のユースから育った訳でもなく、よそから移籍して来て、いつからかもっとも広島を愛し、サンフレッチェを体現していた佐藤寿人というサッカー選手。

いっぽう、広島にいながら広島市民のひとりでありがら、そんな彼の思いに報いてやることができなかった自分たち。

顔向けできない、とはこのことです。

もしかして、それでも移籍していたよという決断だったのかもしれません。
それでも、サンフレかグランパスかの選択の局面で、サンフレの秤の上には新スタジアムは載っていて欲しかった。

その残念な思いは消えません。

                    ❇

ことし広島東洋カープが25年ぶりに優勝しました。
その結果を生んだ大きな要因が新球場への移転にあったことは誰も否定することはできないでしょう。

素晴らしいスタジアムをホームグラウンドにしているというプライド。
球場の魅力がファンを呼び、その応援が選手の大きな支えになっての優勝だったことは監督、選手が口にしていることです。

それほど選手たちがプレイする“器”というのは大きな意味を持っている。

ひるがえってサンフレッチェ。

まさに「応援に来てくれるな!」と言わんばかりにアクセスの悪いスタジアム。
ピッチからスタンドが遠い陸上競技場で、ファンの存在も遠いなかで選手たちは健闘し、カープの今回の優勝に先んじて3回の優勝を重ねてきました。
その中心にいたのが、佐藤寿人選手でした。

その彼らの健気な健闘から生まれたこのドでかい成果を持ってしても、彼らが望むスタジアムへの夢ははぐらかされ、希望は覆されてきたのです。

はからずも、このシーズンオフにカープの黒田博樹投手の引退と、サンフレッチェの佐藤寿人の移籍が重なりました。
広島の2大スポーツから、ふたりのビッグスターが去ることになったわけです。

しかしその不在のあり方は対照的なものとなってしまったのではないでしょうか。

カープの黒田投手の場合は、ズムスタの芝生をさらに青く染めて去っていったような輝かしさがあるのに対して、佐藤選手の方は彼が打ち立てた金字塔のまわりにわびしい「跡地」が残ってしまったような感すらある。

このちがいは、はたしてどこから生まれたのでしょうか。

                    ❇

『カープが広島市に5億円寄付』


きのう『佐藤寿人移籍』の報が伝えられた前後に、こんなニュースが流れました。

淋しいニュースと景気のいい話。
このコントラストは鮮明でした。

まさか意図してのことではなかったのでしょうが、「嫌みかい!」と叫んでしまいそうでした。

料亭『広島伏魔殿』。
ここの「サンフレの間」では、今しも市民を交えての送別会をしみじみとしているのに、その隣の「カープの間」では金満おやじが芸者に大盤振る舞いしてハシャイでいる。

そんな景色がつい頭に浮かんで、正直いい気はしませんでした。

広島市民への還元、感謝の気持ちとしての寄付。
そのこと自体は、悪いことではない。
ありがたいことです。

でも、ちょっとここで考えてみてほしい。

広島市はカープからの寄付金5億円のうち、1億円を原爆ドームの修理に使うことにしたそうです。

原爆ドームの修繕費。
それはもちろん、本来は広島市が負担すべき予算ですね。
これに今回、カープからの寄付金を補填する。

その一方で広島市は、カープの本拠地であるズムスタの「修繕費を積み立てる」という名目でネーミングライツを使って新広島市民球場の名前を売りに出して、その売上をカープに“上納”している。

なんのことはありません、本末転倒のことを両者はしていることになります。
広島市がやるべき事業の予算をカープが用立て、カープが捻出すべき費用を広島市が工面しているという。

ここまでいくと支持支援のレベルを越えて、ズブズブといわれても仕方がない関係が透けてみえてくるようです。

そんな不明朗な金のやりとりをするくらいなら、いつまでも広島市民球場跡地にスタジアムが建設できないことで苦戦を強いられているサンフレに寄付してはどうか。
そんなことを思ったのは、ぼくだけなんでしょうか。

カープもかつては広島市民球場に育ててもらった球団。
それこそ感謝の気持ちも込めて、そうしてもよかったんじゃないでしょうか。

どうもカープ球団には、同じ広島を基盤にするプロのスポーツチームとして共に栄えて行こうという発想がとぼしいようです。
ここまで何年も迷走をつづけてきたサンフレのスタジアム問題を後押ししよう、という気持ちが一向に伝わってきません。

それどころか、立地としてはほとんど可能性のない候補地である宇品の「みなと公園」が、わしゃええ思うとる、と球団トップが無責任に推してみたりと、もしかしてサンフレのスタジアムが市民球場跡地に出来ては困るのかな、と邪推されても仕方ないようなスタンスですらあるのです…。



とまあ、こんな繰り言をいつまで並べていても送別の辞にはなりませんね。


ただただ佐藤寿人選手には、申し訳なく。

新天地の名古屋グランパスでは、素晴らしいスタジアムで縦横に疾駆してサッカーの素晴らしさを思う存分味わっていただきたい、と祈るばかりです。




2016年11月20日日曜日

津田恒美の“呪い”が?


ご存知の方もおおいことでしょう。
豪腕投手の宿命といわれる、ルーズショルダーというものがあります。

豪腕の反面の脆弱さ、といってしまえばそれまでですが、ようは剛球、快速球を投げられる投手のほとんどが肩の可動域が異常に広いために関節周辺の筋肉や腱に負荷がかかりやすく、それらが関節を支えられず不安定になってしまう症状のこと。

直訳すれば「ゆるくなっちまった肩」ですが、もったいぶった医学用語では「非外傷性肩関節不安定症」といいます。

いまでは予防法がしっかりしてきたのか、球数意識が徹底してきたためか、肩を失う投手はまれになりました。
記憶にあたらしいところでは、数年前にジャイアンツの澤村拓一投手がやっちまったみたいで、一時戦線を離脱していたようですが。

よく知られたとろでは、元ソフトバンクホークスの斉藤和巳投手とかヤクルトスワローズの伊藤智仁投手といった超ド級の豪腕投手がこれで投手生命を断たれてしまったケースでしょうか。
彼らのマウンドからの撤退を断腸の思いとともに懐かしんでいるファンはすくなくないでしょう。

投手生命が奪われる前に、若くして病によって実生命が断たれてしまった元カープの津田恒美投手も、このルーズショルダーには悩まされていました。
あの剛球を生んだ並外れたバネの強さは、彼の右肩にも時限爆弾として潜んでいたのです。

南陽工業高校のエースとして甲子園で活躍したのち、彼は社会人の協和発酵(現協和発酵キリン)に入社していますが、そのころにはすでにルーズショルダーの徴候はあったようです。
カープに入団してからもこれが原因でたびたび戦列離脱してますから、彼はこの症状と共存しながら、また、なだめすかしながらマウンドにあがっていたといっても過言ではないでしょう。

津田恒美に関しては、実録ものの「甦る炎のストッパー 津田恒美」と、転生物語りの主人公として「天国から来たストッパー!」の2冊本を書いているので、ルーズショルダーに関わる記述も随所でしています。

「天国から来たストッパー!」の方は、このルーズショルダーが転生の証となる鍵にもなっているので、表現は微に入り細に入らざるをえませんでした。

なので「痛み」とか「違和感」とかいう表現をしきりに使うことになったわけですが、実際にはその痛みというものを経験したことは当然ながらありません。

つまり実感もないまま「痛み」とか「痛い」とか書く。また書かざるをえない。

「からだが悲鳴をあげた」

なんていう表現だって、“息を吐くように嘘をいう総理”のように、つい安易に書いてしまったりするケースもあったわけですね。(笑

その人物の心理に深く入り込み、状況にしっかりと寄り添って、と思ってはいても現実にはそれには限界がある。(ある意味では、完全に当事者の心理とか肉体の感覚に同期できないがゆえのズレとかブレのなかにこそ、客観的にとらえられる軸があるとも理解してますが)

まあどちらにしても、現実から見れば安易に表現してしまっているという誹りは免れず、忸怩たる思いは拭えないわけです。

ルーズショルダーが剛球投手の宿命であるように、このことは物書きの宿命、宿痾ともいえるものでしょう。

                    ❇

旧ブログやフェイスブックなどでも、ときどきぼやいてきたのでご存知の方もいるかと思います。

じつは去年の秋から肩痛に悩まされています。
もう丸一年あまりということになります。

ピッチャーでいえば、フルシーズン出場機会なし。
それどころかマウンドにも立てなかった、そんな時間感覚といってもいいでしょうか。

はじめは左肩だったのですが、何の因果かいまでは右肩もまったく同じ症状になってきて、「肩痛は伝染するのか?」なんて独りボケをかまして微苦笑したこともありました。

左肩をやったときは、原因がはっきりしていて、毎朝の散歩ではじめた滑り台のスロープ下からの蹴上がりトレーニングで手をすべらせて、そのときのダメージで痛めたものでした。

「年寄りの冷や水」ならぬ、「マヌケの蹴上がり」。

そういわれて、まったく抗弁できない笑えないアクシデントだったわけですが、右肩の方はなんの自覚症状もないまま、左肩に「右へならえ!」の発症です。

とすれば左肩の方も、すべったためのダメージというより、もともと「肩が悲鳴をあげる」寸前だったところに因果がかさなってしまったがゆえの結果で、「マヌケの蹴上がり」だけが原因ではなかったかもしれない。

とすると、はたして本当の原因はなんだったのか。

そして思い当たったのが、『津田恒美の呪い』です。

前述したように、彼に関する著作のなかで、安易に「肩の痛み」とか「痛む肩」とか、その実感もないまま書き散らしている。
そのことに対して、津田があの世からあえてメッセージを送ってきてくれたのではないのか…。

「痛い痛いって書くばっかじゃだめなんよ〜。しっかりお勉強してくださいね」と、あの世から例の人懐っこい笑顔を浮かべながら。

そう思ってみると妙に腑に落ちるというか、納得するのですね。

もちろん彼が感じた痛みとは比較にはならないけれど、たぶんそれに似た「痛み」は経験できている。
そしてそのことが、不思議にありがたいのです。

贖罪といえば大げさですが、痛い肩で肩の荷を降ろせたような気もするのです。
きっと「甦る〜」が左肩分で、「天国から〜」が右肩分なのでしょう。(笑

この痛みを先に知っていれば、あの本のなかの記述ももっと深みがあるものとなったかもしれません。
が、それはいってもせんないこと。

これから先、彼に関するまとまった本を書くことはもうないでしょう。
だから、いまさらといえばいまさらなのですが、「痛み」の表現と「痛い」という実感の対象物を介しての自覚というのか、そんな感覚が学べているように思えないこともありません。

これはぼくに限らず、関係者が異口同音にいっていることですが、津田はいつも、いつまでもあの世からこちらになにかを働きかけてくれている、そのことをいまあらためて実感してもいます。

だからこちらからも、返してやりました。
もちろん“呪い”ではなく、感謝を。

津田よ、こんどもありがとう!

2016年11月14日月曜日

トランプの裏の希望



前回はプロ野球のオーナーの成績表をつけてみました。

きょうは趣向を変えてプロ野球ならぬ、アメリカという国家のオーナーについて検討してみたく思います。
政治向きのことに興味のない方は、強烈なイレギュラーがいきますからトンネルでスルーしてください。(笑

                    ❇

そもそもアメリカという国家のオーナーが大統領であるかが疑問ですが、そこはまたお遊び、こじつけということでご了解願います。

表向き世界最強の権力者といわれるアメリカの大統領ですが、じつはある支配勢力の膝下にあるという現実。これはよく知られたことです。

大統領とて彼らからみれば使用人。
したがって、これが自分たちの意にそわないようなことをしようとすれば排斥しようとするのは当然のことで、そのいい例がケネディ大統領の暗殺でしょう。

あるいは彼らが「お尻を舐めるのが好きなポチ」に面倒みさせている日本に目を向けてみれば、田中角栄や小沢一郎氏もしかり。
日本の国益に叶うこと、つまりアメリカ支配者の利益に反することをする政治家は、ことごとく潰されてきたのは悲しい日本近代史の一面です。(小沢氏は自由党でまた復活しそうですが)

彼らは国家の最高権力者であっても簡単に殺せるし、その真相は易々と隠蔽できる。それはメディアはもちろん、情報機関や司法や軍事をも大統領ではなく、その支配システムが管理しているからにほかなりません。

それが産軍複合体であるとかCFRだとかフリーメーソンだとかイルミナティーだとか、いろいろ語られてはいますが、とにかく巨額のマネーと暴力装置による支配権力が大統領の上にあることだけはたしかなこと。

そして、この従来からの権力構造がバックアップして大統領にするはずだったのがヒラリー・クリントンで、そのシステムの外の庶民の側から誕生したのがドナルド・トランプだったというのが今回の大統領選挙の構図だったわけです。

もちろん、これまでもトランプ的な候補者は何度も大統領選にチャレンジしてきました。
しかし残念ながら、これらの候補はことごとく枕を並べて討ち死にしてきました。

それは当然のことで、「大統領は国民でははなく支配権力が決めて来た」からです。

莫大な予算を投入してキャンペーンをし、広告を垂れ流して有権者を洗脳する。
つまり資金のある候補者しか勝てないシステムになっているのですから、だれを当選させるかは思うがまま。

それでもたまにブッシュのようなマヌケがヘマやらかしても、フロリダかどこかの選挙結果を改ざんしての不正選挙でごり押ししてしまうのですから、ホワイトハウスには彼らの使用人以外は入ることはできなかったわけです。

ところが今回の大統領選挙では、この原則が壊れてマズいことが起こってしまった。
それでメディアからは「ありえない」という半狂乱、断末魔の叫びがもれてきているということのようです。

                     ❇
        
大統領選の投票日を前にして、在日のアメリカ人詩人がある討論番組で大統領選について語っていたことを思い出します。      
彼は選挙のためにわざわざアメリカに帰国して投票するんだと息巻いていたのですが、その彼がいってました。

「ヒラリーとアヒルだったら、ぼくはアヒルに入れますよ」と。

その昔、ドナルド・ダックというアヒルが主人公のアニメがありましたが、彼はそれにかけてトランプの方がヒラリーよりはまだましだといいたかったのかもしれません。
なんといっても選挙の結果がでるまでは、「トランプ支持」は公言しにくい雰囲気がありましたから。

でも、さすがに感性がフォースにつながっている詩人です。(いってることが本人にもよくわかりませんが、フォースからことばが降りてきました・笑)
彼が望んだようにヒラリーは落選してドナルド・トランプが大統領に選出されたわけです。

その詩人は「なぜクリントンはだめなのか?」と聞かれていっていました。

「ぼくたちはもう彼女が40年間してきたこと(悪事)を知ってますから」

たぶん巷間いわれてきた金融犯罪、そして周辺の関係者の不可解な連続死のことなんかを指していたのでしょう。

「ヒラリーを監獄へ」でしたっけ、結構うけてるキャッチがあるみたいですが、それがジョークではないレベルで語られているところに彼女の闇の深さを思わずにはいられません。

                    ❇

トランプの勝利が決まってから、ようやく今回の大統領選のディテールとそれにつながる日米関係の一端が見えはじめました。

安倍政権がなぜ大統領選挙の前に、アメリカの参加が前提となっているTPPを強行採決するような滑稽なことをするはめになったのか?

いま国内でもっとも関心が高く、また、もっとも政治的な意味のないプロセスについての疑問がまず氷解しました。

大統領選の前から、ヒラリーもトランプも「TPPには反対する」と明言していたのですから、日本がこれを可決してもなんの意味もない。

ところが半狂乱になって、安倍政権はTPPを強行採決しました。

相手の金髪女は「ノーサンキュー」と断っているのに、ちたったらず(舌ったらず)のお坊ちゃんが勝手に婚姻届けに印鑑押して「ぼくちゃん印鑑おちたから結婚ちてくれるでちょ!」って、アホを絵に描いたような茶番です。

「バカなまねは、おやめなさい!」

世間は好意から、あるいは苦笑しながらそれをいさめているのに、世間知らずのお坊っちゃまはダダこねて強行してしまいました。

しかし、いくら「歴代最悪の総理」の評をたしかなものにしている御仁とはいえ、ここまでの失態、喜劇を演じたのには理由があるはずです。

その謎(ちょっと大げさかな)を説く鍵が、彼の訪米です。

彼は歴代の首相のなかでも「バラまき総理」といわれるほどよく外遊するほうですが、あのときも「安倍、ちょっと来い!」とヒラリーに呼びつけられたのか、「安倍くん、ちょっ行って来てくんない」と外務省あたりからお使いたのまれたのか、あわただしく訪米しています。

聞くところによると「外むちょうにだまされた」とご本人は激高しているらしいのですが、きっと外務省は「つぎはクリントンで決まってますから…」と因果をふくめてヒラリーとの密談に当たらせたのでしょう。

いまになってみれば、いかにも世間知らずのお坊っちゃまらしいマヌケぶりですが、その会談の席で安倍総理はヒラリーから「大統領就任後には必ずTPPに批准する」という言質をちょうだいしてきたのでしょう。

だからそれを信じて、安倍政権はTPPを強行採決したわけです。
まず日本が承認しておいてのち、鬼女ヒラリーがひらりと手のひらを返して承認する。
こんなシナリオが、あらかじめあったわけです。

ところが「ありえないこと」が起きて、トランプが勝ってしまった。
それでお粗末なシナリオが紙くずになって、お坊っちゃまカンカンというわけです。

まったく国のトップがこのていたらくなのは恥ずかしいかぎりですが、とりあえずはめでたくTPPにはストップがかかったわけで、僥倖といわざるをえません。

                    ❇

今回の大統領選挙では、ヒラリー・クリントンとともにマスメディアも敗者となったという声しきりです。

いわく、
「さんざん垂れ流した世論調査がはずれた」とか、

「世論調査の誤りを見抜けなかった」とか。

しかし、それはまたメディアお得意の論点のすりかえ。
彼らが一敗地にまみれたのはそんな瑣末なところではありません。

「自分たちが世論をつくり(つまりねつ造して)、国民を洗脳することで思うがままの大統領を決める」

これまで当たり前のようにしてきたこと、できていた手法が通用しなかった。
自分たちがよりどころにしてきた力の源泉がすでに枯渇しはじめていたことを知らされることになった。
このことで彼らは敗者となったのです。

これはさすがにショックだったことでしょう。
マスメディアのアイデンティティ、支配者のためのプロパガンダ機能が失われたということなのですから。

いみじくもトランプはいっていました。
「ソーシャルメディアの勝利だ」と。

そう、既存のメディアがネットという新興メディアにとってかわられたということなのですから。

これは国民の側からいえば、彼らがメディアの誘導や洗脳にだまされなかった、ということでもある。
その意味では今回の米国大統領選挙は歴史的な大事件として記憶されることになるかもしれません。

トランプが大統領になって何が変わるのるか、どう変わるのかをいま世界は固唾をのんで見守っています。
しかしその前に、「トランプが大統領に選出された」ということは、すでに何かが変わってしまったていたことの結果だったともいえるわけです。

ひるがえって、わが日本。

ちょっと前の参院選を思い出してみましょう。

選挙の争点を検証したり、安保法制の是非についてまっとうに争点を論じるでもなく、連日のようにマスメディアは怪しげな世論調査を垂れ流しつづけました。

いわく「自公優勢」ってやつです。

そして、あてにもならない「自公優勢」の空念仏におどらされて、まんまと自公優勢の結果を招いてしまったおめでたい有権者。

「ねつ造された世論」を実現してしまったのはほかならぬ有権者であり、その結果として残念ながら世論調査は現実を反映したものとなってしまった。

トランプの品位をうんぬんする前に、私たち有権者はみずからの不明をはじるべきなのでしょう。

しかし、トランプはいいお手本を見せてくれました。示唆に富む選挙をしてくれた。

日本でもこれと同じ現象は起こりえる。
そのための地殻変動がすでに起こっているはずです。

それにしても、果たして日本にトランプがいるかどうか…。

と思いをはせて、浮かんだ顔がありました。
いましたいました、彼ならそんな候補になれそうです。

まっとうな正論をいっているのに「過激な議員」のレッテルを貼られてしまっているあの議員。
もうすでに「トランプ状態」です。(笑

彼なんかがひと暴れしてくれて、かしこい有権者がバックアップしたら意外に日本の支配体制なんて、ちょろいもんかも…。

2016年11月12日土曜日

オーナーの“意気込み”を数値化してみれば…

前回のつづきです。

プロ野球オーナーの成績表

2016年版は下記のようになりました。

  ① 堤 義明  西武ライオンズ    47点
  ② 松田耕平  広島東洋カープ    25点

  ③ 孫 正義  SB・ホークス      20点
  
 宮内義彦  OX・バファローズ  15点
  ⑤ 大社義規  日本ハムファイターズ 14点
  ⑥ 永田雅一  大映スターズ     12点

  ⑦ 中内   ダイエー・ホークス  11点
  ⑦ 重光武雄  ロッテ・オリオンズ  11点
  ⑨ 大社啓二  日本ハムファイターズ 9点
  ⑩ 中部慶次郎 横浜ベイスターズ    8点

  ⑩ 中部謙吉  大洋ホエールズ     8点
  ⑩ 重光昭夫  千葉ロッテマリーンズ 8点
  ⑬ 松園尚巳  ヤクルトスワローズ   7点
  ⑭ 有馬頼寧  セネターズ       5点

  ⑮ 三木谷浩史 楽天GE         4点
   松田 元  広島東洋カープ     4点
  ⑮ 田村駒治郎 松竹ロビンス      4点
  ⑱ 中部新次郎 大洋ホエールズ     2点
  ⑲ 松田恒次  広島東洋カープ     1点
  ⑳ 中部謙市  大洋ホエールズ     0点
  ㉑ 高橋龍太郎 高橋ユニオンズ     0点


   ※同点の場合は優勝回数で、また所有年数の少ない順です
    マリーンズの重光昭夫氏は代行の肩書きですが実質オーナーという理解で
    (あくまでも遊びですから細かいことに目くじら立てないようお願いします)

                    ❇

すでに物故者となられた方、また、オーナー職を辞した方、剥奪された方の加点はありませんから、赤字の現役オーナーのみ評価があがりました。(評価点については前回の記事参照)

めざましい躍進をしたのはホークスの孫正義氏。みなさんご想像のとおりです。

あれから日本一2回、Aクラス入り2回で8点増加して一躍3位に踊り出ました。
「世界をめざす!」という意気込み、熱意がそのまま結果に出たというところです。

逆に伸びがみられなかったのが宮内義彦氏。Aクラス入り1回だけの1点のみ。
こちらは「球団経営に意欲をなくしている」という風評が反映されたようにも見えます。

しかも宮内氏の場合は、球史に残る汚点ともいえる近鉄バファローズ消滅の張本人でもあり、個人的にはマイナス評価です。
オリックス・ブルーウェーブ時代にイチローという得難い逸材を得て手にした栄光を台無しにしてしまったのが惜しまれます。

ところで、わがカープの松田元オーナーはというと、Aクラス2回、優勝1回と、このところの躍進で4点の増。
めでたくドベを脱して15位へと上昇しました。

いまの戦力を考えれば、近い将来、かなり上位に進出する可能性を秘めているといってもいいんじゃないでしょうか。

ただ、懸念材料がないこともありません。

「5割でええで病」
これが再発しないかということ。

いちおう今回優勝したことでもあり、またしばらくは5割ラインでえかろうと、みずからチームの勢いにブレーキをかけてしまわなければいいがという不安です。


せんだっても、優勝が決まったときの談話で「この感動が先々まで残るものであってほしい」と語っていたのがひっかかっています。

読みようによっては、「またしばらく優勝するつもりはないで」そう語っているようにも読めたので。

まあ深読みの拡大解釈なのかもしれませんが、過去の“実績”があるだけに、どうしてもネガティブに理解してしまうんですね。

これも古くからのカープのファン気質とでもいうんでしょうか。(笑




2016年11月11日金曜日

カープ優勝の経済効果、ではなく…

—カープはなぜいつまでも優勝できないのか?

この疑問を球団の経営面からアプローチしてみたのが、拙著「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ赤字にならないのか?」です。
その前に上梓していた「衣笠祥雄はなぜ監督になれないのか?」の続編ともいえるもので、2012年に上梓しました

タイトルが刺激的すぎましたでしょうか、ベストセラーになっていた「さおだけ屋はなぜつぶれないのか?」と同類の会計関係の書と勘違いされて、意識あるカープファンのお手元にストレートにお届けすることができませんでした。

でもおかげさまで、そこそこ売れまして、広島の書店ではずっとベストセラーをつづけていました。

それが、いわゆる世に「カープ本」といわれる単行本、ムック本、雑誌などが溢れるようになってくると、それらにまぎれてしまって、いまは「小康状態をたもっている」そんな感じです。(笑

それまでカープ球団が出版に理解なく、地元の新聞社や出版社以外には非協力的で「球団公認」で本を出すなんて考えられない時代がすっとつづいていたことは業界では有名な話。
それがまるで「マツダ商店〜」を埋もれさせるかのごとく「公認」が乱発されるようになったわけで、関係の版元には拙著にいくら感謝してもしたりないと思うのですが…。(笑

それはさておき、その「マツダ商店(広島東洋カープ)はなぜ赤字にならないのか?」の巻末に「歴代オーナーの成績表」(2011年まで)を掲載しています。

いうまでもなく2011年といえば、まだカープが『いつまでも優勝できない街道』をひた走っていたころで、そんな体たらくにしてしまった球団経営者の「怠慢ぶり」を他のオーナーと比べてみようという試みで掲載したものです。

もちろん個人オーナー、ないしはそれに準じる人物が対象で、例えば読売ジャイアンツのように大組織の中の一部署であるところとか、出向の役職のような球団は取り上げていません。

その各オーナーの実績一覧が下記のとおりです。(2011シーズンまで)

     主なプロ野球オーナーの成績表  

  氏 名   主な球団       所有年 優勝  A
  有馬頼寧  セネタース       9   0  5
  高橋龍太郎 高橋ユニオンズ     6   0  0
  田村駒治郎 松竹ロビンス      17     1  2
  永田雅一  大映スターズ      23   2  8
  中部謙市  大洋ホエールズ     5   0   0
  中部謙吉  大洋ホエールズ     22     1①  5
  中部新次郎 大洋ホエールズ     13   0   2
  中部慶次郎 横浜ベイスターズ    13   1①  5
  松田恒次  広島東洋カープ     3     0     1
  松田耕平  広島東洋カープ     32     6③  13
  松田 元  広島東洋カープ     9   0    0
  松園尚巳  ヤクルトスワローズ   23     1①  4 
  大社義規  日本ハムファイターズ  31   1   12
  大社啓二  日本ハムファイターズ  7    3①  2 
  重光武雄  ロッテ・オリオンズ   20     1①   8
  重光昭夫  千葉ロッテマリーンズ  21     1①   2
  堤 義明  西武ライオンズ     26    15⑨   8
  中内   ダイエー・ホークス   16   3②   3
  孫 正義  ソフトバンク・ホークス 7   2①   4
  宮内義彦  OX・ブルーウェーブ  23   2①   9
  三木谷浩史 楽天GE         7    0    1             
   ※丸数字は日本一、重光昭夫は代行として主なプロ野球オーナーの成績ランキング
    赤文字は現役

この実績から各オーナーの評価を数値化して、わかりやすく比べてみようということです。
その点数はつぎのようにしました。

 日本一になった場合は3点
 優勝は2点
 Aクラスにはいれば1点

これを加算した数字がオーナーの成績となります。


そのときの成績表が下記の表です。

  ① 堤 義明  西武ライオンズ    47点
  ② 松田耕平  広島東洋カープ    25点
  ③ 宮内義彦  OX・ブルーウェーブ 14点
  ④ 大社義規  日本ハムファイターズ 14点
  ⑤ 永田雅一  大映スターズ     12点

  ⑥ 中内   ダイエー・ホークス  11点
  ⑦ 重光武雄  ロッテ・オリオンズ  11点
  ⑧ 大社啓二  日本ハムファイターズ 9点
  ⑨ 孫 正義  SB・ホークス     9点
  ⑩ 中部慶次郎 横浜ベイスターズ    8点

  ⑩ 中部謙吉  大洋ホエールズ     8点
  ⑫ 松園尚巳  ヤクルトスワローズ   7点
  ⑬ 重光昭夫  千葉ロッテマリーンズ 5点
  ⑭ 有馬頼寧  セネターズ       5点
  ⑮ 田村駒治郎 松竹ロビンス      4点
  ⑯ 中部新次郎 大洋ホエールズ     2点
  ⑰ 松田恒次  広島東洋カープ     1点
  ⑱ 三木谷浩史 楽天GE         1点
  ⑲ 中部謙市  大洋ホエールズ     0点
  ⑳ 高橋龍太郎 高橋ユニオンズ     0点

   松田 元  広島東洋カープ     0点
    同点の場合は優勝回数で、また所有年数の少ない順とした

これを見ると歴然でした。
球界に対する貢献度。球団への愛、そしてファンへのサービス精神。
そんなものが、はっきりとデータとして見て取れるようでした。

トップは堤義明氏でした。
西武ライオンズ黄金時代をつくりあげた名物オーナーですね。
力量が、はっきりと見てとれます。

そしてカープの松田耕平前オーナーがそれにつづきます。
やはりカープ黄金時代

この2球団の黄金時代。
その礎を築いたのがご存知根本陸夫氏でした。

カープでは初優勝のチームの基礎をつくり、ライオンズではGMとしてチームづくりに貢献した。
このような人物を招聘起用しチームづくりをゆだねる度量が、このふたりに共通していたといってもいいのかもしれません。

その耕平氏の跡をついだ元氏が、このオーナー成績ではドベでした。
しかも0点の「欠点」。
さみしい結果となりました。

同じく0点があとふたりいました。
しかし大洋ホエールズの中部謙市は、いまからというときに急逝してしまいましたし、高橋ユニオンズの高橋龍太郎氏は、『球界最弱』と謳われたチームを引き受けさせられてのことですから同情はされても、糾弾されるようなとはありません。

それに引き換え、元氏の場合は安定経営をつづけていた球団のオーナーを長くつづけながらの結果ゼロ。
9年もオーナーをつとめながらAクラス入りすらなかったのです。

これはいただけまんでした。

しかし、このデータ、成績もめでたく見直さなければいけなくなりましたね。
長年の低迷からおさらばして、とうとうカープが優勝したのですから。

そこで、このシーズンまでの成績を加味して前記のデータをあらためることにしました。

もしあなたもお暇でしたら、やってみてください。
点数はさっきお教えしましたよね。

それでは結果がでましたら、また。





  
                     

2016年11月10日木曜日

“ならず者監督”が出したヒットエンドランのサイン


アメリカの大統領選挙でトランプの勝利が決まった朝。

それを知った気持ちが空に反映するとすれば快晴になるわけもなく、それでも雲間にのぞく青空に、いくらかの希望を見るようでもあり…。

9.11の自作自演テロを口実にアフガンに侵攻し、イラクという国家を破壊して公然と富の収奪をはじめてからというもの、あの国の政治向きのことには嫌悪感が先にたってしまって、今回の大統領選挙もほとんど無関心にちかいものでした。

侵略戦争が国家の基盤になっているという、あまりほめられたお国ではない大統領選の、どっちもどっちの候補者の、どっちかが勝つというだけのこと。
そんなしらけた気持ちで、対岸のばか騒ぎを遠望していました。

呆れるほどの大金と無駄な時間を費やして「嫌われ者」と「ならず者」の品評会をして、なにが面白いのか。

それが自国だけのバラエティで終わればまだしも、世界に少なからぬ影響を与えてしまうという悪いジョーク。
自国のことは棚に上げて、アメリカの大統領選挙のシステムにため息まじりの苦笑を禁じえませんでした。

ただ今回は第三極の候補がこれまで以上に健闘していて、「もしや」という空気が流れていたのが異例で、トランプの存在もキワものとして気にはなっていました。

とはいうものの、既得権益で固まった支配システムからは外れた候補。どうせそのうち潰されて沈んでいくだろうと予想していました。

ところが、あにはからんやトランプはいつまでも選挙戦から離脱せずプレイをつづけているご様子。
それどころか、可能性さえ語られるようになっていきました。

その執念、しつこさ。
まるで日本ハムファイターズの中島卓也選手のよう。
さきの日本シリーズでファウル、ファウルでねばったいやらしさは、いまだカープファンの脳裏を離れることがありません。

「トランプといっしょにするなよ」と、ご本人にもファンもさぞやご立腹されるでしょうが。(笑

                    ❇

それはさておき、

もしやこのトランプというカード、あなどれないのかも。
選挙戦が進むにつれて、そんな恐れとも興味ともつかないものがわいてきました。

そのうち目にしたわずかな情報のなかに、「黄色いケツの猿ども(トランプ語で日本のことです)は米軍基地の予算を全額負担するべきだ。さもなくば基地は撤退する」と、彼が主張していることをネットで目にしました。

このことを知ったとき、ちいさな叫びが口を突いて出るのを抑えることができませんでした。

「どうぞ、ご撤退を!」

米軍基地の撤退が現実のものになるかも、そんな期待に胸が震えました。

対米自立が叫ばれるようになった昨今ですが、その出口には容易にたどりつけそうもありませんでした。

それがトンネルの向こうから、わざわざトランプが「こっちから手を振ってやってもいいぜ、クソ野郎ども」といっているのですから、こんなにありがたいことはありません。

もちろん“トランプリスク”というものはあるでしょうが、この米軍基地撤退の可能性だけでも個人的には大きなポイントなのです。

どっちもどっちならばの消極的な「トランプ乗り!」になった瞬間でした。

そうはいっても「ならず者」が大統領になることへの抵抗感は払拭できず、かといって「嫌われ者」のヒラリーではこれまでの日米関係を転換できないのは明らか。

悶々としているうちにとうとう投票日となって、トランプが勝利してしまいました。

もともと結果は二者択一だったわけで、どうせどっちもどっちなら、やはりトランプでよかったかと、いまは自分を慰めているところ。

野球にたとえれば、土壇場に追い込まれてのわずかなチャンス。
ここは消極的なバントよりも、逆転ねらいのヒットエンドランのサインでよかった、と。

もちろんその結果として、吉凶どちらに転ぶかはわかりせんが……

                   ❇

それにしても、正誤はさておきメディアの「反トランプ一大キャンペーン」にもブレることなくトランプを選んだアメリカ国民の信念はさすが。

度し難き国の愛すべき国民たち。




2016年11月9日水曜日

「黒田博樹の伝説は終わらない」


この投稿のタイトルとなったフレーズが、昨夜呉線の列車の車中でふっと頭をよぎっていました。

黒田博樹がカープに入団したとき、カープ大野寮の寮長だった吉田隆禎さんのお宅を訪ねた帰りのことです。

黒田博樹は引退し、もうマウンドで投げることはありません。
しかし、ある人物がその不在によって逆に存在感を増していくように、彼の伝説もこれからますます大きく、そして陰影を濃くしていくことでしょう。

吉田さんとのお付き合いはどれほどになるでしょうか。
たしか「カープ猛者列伝」を書いたことでカープの関係各位との縁ができはじめたころでしたから2000年前後のこと。かれこれ20年あまりになりますか。

拙著「黒田博樹 男気の証明」にも登場されますが、「(この本が世に出てから)あちこちからお呼びがかかって大変なんよ、堀さん」と、うれしいことをいってくれるような方で、いうならば「気配りのひと」です。

また「人情のひと」で、涙もろいところがある。
彼の涙を、ぼくは何度見たことでしょうか。

寮で世話していた選手が一軍にあがると喜んでは涙し、芽が出ず若くして退団する選手のために嘆いては泣き、退職する自分を見送ってくれた仲間たちに感謝しては号泣し…。

野球で鍛えた大きなからだとはいえ、どこにこれだけの涙があったのかと思うほどの泣き虫。
そんな人柄から、カープの若手に慕われたのでしょう。

先日の5日、黒田博樹投手の引退会見のあとでも、テレビの中継でさっそくやってました。

「200勝のかかった試合を見に行ったんですがね…」と語りはじめるやいなや、もう顔がくしゃくしゃ。

「そのことを知った黒田投手が、わざわざグラブを贈ってくれたんですよ…」と。

椅子に掛けての出演だったので、カープが初優勝したときに歓びのコメントを取材されていた初代監督の石本秀一さんのお姿を思い出したりして。

病気をされて療養しはじめてから長くお目にかかっていなかったので、ひさしぶりのお姿が懐かしくて携帯を鳴らしてみました。

すると元気そうな声で、「相変わらず忙しいんよ。明日(優勝パレードの日です)は、駅前のホテルで講演頼まれとるんよ」と。

「来週の火曜日なら…」ということで、ひさびさに昨日お会いすることになったのです。

呉駅近くのホテルの和食のレストランにご招待いただいての会食。
せっかくなので雑談を録画してみたのですが、貴重な資料ともなりそうなお話や、ちょっと危ない発言もあったりで、埋もらせてしまうのはもったいなく、ご本人の了解をいただいてYouTubeにアップすることにしました。

だらだら長話のほぼノーカット。
まずは第1回「長谷川良平の永久欠番秘話」をお送りいたします。


続編も随時、公開していく予定です。
お楽しみに。