ボブ・ディランと直接コンタクトがとれず困惑していたノーベル賞事務局が、ついに連絡をあきらめた。
「あとは授賞式に彼があらわれてくれることを願うだけだ」というコメントが、さきごろ公表されたようだ。
ノーベル文学賞の授賞が決まってすぐに開催されたライブでも、ディランはノーベル賞の「ノ」の字も語らずにステージを降りたと伝えられている。
そんな経緯もふくめて、「本人のアクションがまったくない」というリアクションから、彼がノーベル賞を拒否するのではないかという憶測を生んでいる。
ぼく自身も、期待込みでぼんやりとそんなことを考えていた。
しかし、そんな推測に自分自身が疑問を持ちはじめた。
いまでは想像したくないイメージが脳裏に浮かぶようにもなっている。
それは、彼がノーベル賞の授賞式にサプライズ登場して、万来の拍手を浴びながら「やあ、まだいたのかい?」なんてぶっきらぼうに挨拶をしてから、ぞんざいにメダルを受け取ってステージを去って行く、そんな映像だ。
いかにもありそうな、ディランらしいやり方だと、いまでは「あるある」と得心すらしはじめている。
これならノーベル賞の権威にひれ伏すことなく、ファンの思いもさほど傷つけることなく、かつ劇的な効果をもって授賞することができそうだ。
ディランのいまの沈黙が、「ノーベル賞への拒否反応」というよりも、「いかに効果的に授賞するか?」という演出上の目的からなされていると考えられなくもないだろう。
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ディランがもっとも時代を体現していたのは1960年代の終わりから70年代の初頭だったと思うが、このころ高校生だったぼくがオールナイトニッポンを聴いていたときのことだ。
たぶんリクエストハガキ大好きの広島県人のリスナーからのものだったのだろう、「平和イベントにボブ・ディランを招んだらどうか、彼ならボランティアで来てくれるだろう」という「お葉書」だった。
そのときのパーソナリティが亀ちゃんだったか湯川れい子女史だったか、だれだったかは失念したが、その提案を彼か彼女はにべもなく否定した。
「ディランがノーギャラで来るわけがない。そんな考えは甘いよ」
わけ知り顔に、あるいはこう笑しながらだったか、パーソナリティーはいい放った。
それはかつてパーソナリティー自身が直接か間接か、同じような試みをして一蹴されたことがあるかのような、怒りとか自慢とかがいりまじったような複雑な口ぶりでもあった。
このころ広島には外タレのビッグネームがたてつづけにやって来ていた。
ぼくが経験しただけでもレッド・ツェッペリン、ジェスロ・タル、ヨーコ・オノなどがいる。
そのどれもが小さなホールでのライブで、アーチストのギャラを度外視してのライブだった。
「広島で演奏することでヒロシマ祈りを捧げたい」
当のアーチストたちが、それを望んで来ていたからだ。
そんな脈絡のなかでの、リスナーのお葉書だったのだろう。
「平和」とか「ヒロシマ」が、すべを解決してくれる。
よくも悪しくも、いまだに根強い神話のようなものに浮かされてのことだったのだろう。
そのころ心身ともに童貞だった私は、そのコメントに愕然としたのを憶えている。
ロックにはまっていて、フォークを軽くみていたからディランにさほど興味があったわけではなかったが、「反権威」とか「反コマーシャリズム」とか、ディランに対する勝手なイメージだけは膨らませていたからだ。
だから、彼もがその魔の手から自由ではないんだといわれたようで、目の前に地獄絵を突きつけられた思いがしたものだった。
ディランがメジャーデビューしてから半世紀以上になる。
決して短いとはいえない彼の活動、言動から検証しても、彼の実像はあいいなままのようだ。
その原因は、どんどん神格化され肥大化していくディラン像と、彼の実態とがどんどん乖離して行って、本人以外はだれもがその振幅のなかで揺すられつづけてきたことによるのだろう。
今回もまたノーベル賞が、その振り子を大きく揺らすことになった。
もらうことが当たり前とされる賞を、彼がもらうかもらわないかで全人格を評価しようと、世界が手ぐすね引いて待ってる。
もちろん彼がノーベル賞を授賞しようが拒否しようが、それは彼自身の判断で、余人がどうのこうのいうのはお門違い、大きなお世話だ。
とはいえ、「ノーベル賞を拒否した人物」に拍手喝采を送ってみたいという思いは強い。
そんな野次馬根性から、今回のディラン騒動を傍観しているのはぼくだけではないだろう。
上の写真は1995年に拙著「『時代の気分』はもう二日酔い。」で直川賞をいただいたときの「本の雑誌」の記事。
自分で勝手に賞を創設して、本人が受賞したということで世間では顰蹙を買い、また笑い者にもなったものだったが…
ちなみに下記の作品では「芥木賞」も受賞しています。(笑
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