ボブ・ディランにノーベル文学賞。
ネットでこのニュースを目にしたとき、
「イタズラ投稿か?」
とはさすがに思わなかったが、正直驚いた。
あったり前だ。
シンガーがはじめて受賞したのだ、この快挙を予想したものは関係者以外はまずいなかっただろう。
小学6年生の時にラジオから流れてきたビートルズの「ロックンロールミュージック」に勃起するという随喜に浴してからというもの、ずっと無自覚に洋楽に親しんできてしまった私だが、真正面から彼の歌に対峙した時期はない。
彼のLPはもちろん、CDも音質の悪いヨーロッパでのライブ盤が1枚あるだけた。
「音楽は流して聞く」という「ながらリスナー」だった私にとって、歌詞が勝負のダミ声のディランはさほど魅力的ではなかったからだ。
ディランがエレキを採り入れてザ・バンドをバックに従えて演奏をはじめたとき、フォークファンからは非難の嵐を浴びたが、私はロックの側から歓迎したということもない。
どちらかといえば「ザ・バンドがかつてバックをつとめていた偉大なミュージシャン」というポジショニング。
私にとってディランは、そんなところだった。
たまにディランの才能と偉大を感じたのは、そのザ・バンドをはじめバーズなど様々なアーチストによってカバーされた彼の曲を耳にしたときに限られていた。
彼の詩の訴えるメッセージが聞きやすいメロディーに編曲されて演奏されると、不思議な魔力のようなものが生まれ、魂の郷愁に誘われたような感覚に見舞われたものだ。
「アメリカ伝統音楽にのせて新しい詩の表現を創造した」
これがディランの受賞理由だという。
わかったようなわからないような理由だが、彼の才能がそれに値するかどうかと言えばそれを否定するつもりもないし、賞賛したいとも思う。
ただディランがノーベル文学賞を受けるかどうかということでいえば、否定したい気持ちもある。
彼のメッセージの切っ先の鋭さまで受け止めてみたことはないが、そのナイフはノーベル賞的なものに向けられていたはずだからだ。
いまのところノーベル賞の関係者は、今回の受賞の件でディラン本人と連絡が取れていないらしい。
この決定直後にあったライブでも、彼はいっさいコメントをしなかったともいう。
彼の知人の中にはディランが賞を返上するのではないかといっている者すらいる。
そのディランとてレコード会社とかプロモーターとか、巨大で強固な商業システムにからめとられているわけで、さすがに拒否まではできないだろうが、式には列席しないとか、何らかの抵抗の姿勢は示しそうな気がしないでもない。
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