2017年4月2日日曜日

「なんともうしましょうか。」

4月1日の試合

阪神 42002-8

広島 30022101-9

 勝 中崎1勝
 負 ドリス1敗
 本塁打 丸1号 鈴木1号
阪神先発が左腕の岩貞ということで、レフトにエルドレッド、サードには小窪が入ってのこのオーダー。
先発投手は岡田明丈投手だった。

その岡田が4回を投げて与四死球7の大荒れ。連られたように岩貞も5回で5個の大ふんぱ。
両チームとの中継ぎ抑えもしまりなく、合わせて28個の四死球が乱発されるという締まりのない試合になってしまった。

「なんと申しましょうか。」


まるでエイプリルフールの冗談のようなゲームを見せられて、頭に浮かんだのがこの言葉だった。

昭和30年代にプロ野球解説者だった小西得郎が、ある選手の股間を硬球が直撃したときにアナウンサーに話を振られてとっさに漏らしたという名セリフ。
言葉にならない痛さ、うめくしかない状況を表現して見事としかいいようがない。

このセリフはまた、時代の空気をも表して的確だったのだろう、当時の流行語にもなった。
いたるところで、オトナたちが微妙な苦笑を浮かべながらこの言葉を発するのを、こどものころに散々聞かされたものだった。

この試合でいえば、熱心に観戦しているこちらの興趣に大暴投の硬球が直撃して、この言葉とともに「はらほろひれはれ」と、気持ちが萎えてしまった感じとでもいったらいいだろうか。

それにしても、この大記録の立役者となった岡田投手。
シーズンを前に制球をよくしようとフォームを改造してまでのぞんだ初戦で、こんなことになってしまって心中複雑な思いだったことだろう。

なんでも1試合最多与四死球のプロ野球記録で、1937年9月12日の金鯱対ライオン戦以来80年ぶりの“快挙”だという。

1937年といえば、プロ野球がはじまった翌年のこと。創世期まっただなかで、まだどのチームも、ふわふわとしてメンバーも固まらない前の頃のことだ。

たとえば金鯱の投手事情といえば、前年に5人の布陣ではじまり、途中ひとり抜けての4人体制だった。
その結成時の名前と年齢、そして出身を一応列挙しておくと、

 金子  裕 22 鎌倉中
 古谷倉之助 25 八王子中
 内藤 幸三 20 東京市商
 平川喜代美 24 アイエア高

なんとこの名簿に、カープ球団初の開幕投手となった内藤幸三の名前が見える。

なんと申しましょうか…、球筋の定まらなかった岡田投手の投球が、実はピンポイントでカープ史の源流にぼくたちを導いてくれていたのですね(笑。

せっかくなので、そのときのスタメンを紹介しておきましょうか。
これがその記念すべき試合でスコアボードに並んだカープのスタメンです。


このとき内藤幸三、34才。
3月10日平和台球場でのことで、対戦相手は西日本パイレーツ。残念ながらカープは5対6で惜敗し、内藤に勝ち負けはつかず。

そして4日後の広島総合球場での国鉄戦に先発した内藤が、カープ史上初の勝利投手となっているのですね。

一方のライオンはといえば、このときの監督が「なんと申しましょうか」の生みの親である小西得郎でした。

で、どんな投手がいたかといえば、下記の通り。

 菊矢 吉男 22 関大
 桜井七之助 19 神奈川工
 近藤  久 19 名古屋商
 村田 重治 20 京橋商

ということで、それぞれの投手の力量はいざ知らず、布陣としてお寒かったことは一目瞭然。

こんな投手事情だったころのグラウンドと同じようなことをしてちゃいかんでしょ。


















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